『天北原野』をたずねて ~その6 九人の乙女の碑・猿払 電気通信ゆかりの地~

作品舞台の訪問記

今回は、「九人の乙女の碑」と「電気通信ゆかりの地」をご紹介いたします!
まずは順に「九人の乙女の碑」から。
前回前々回と同じく、稚内公園の中にあり、氷雪の門のすぐ隣に立っています。

「皆さん、これが最後です さようなら さようなら」

碑に刻まれている大きな文字。
多くは語らないシンプルなお別れの挨拶ですが、この言葉は、これから夢多き人生を送るはずだった9人の乙女たちが壮絶な覚悟をこめて、最期に振り絞った言葉なのです。

1945(昭和20)8月20日 早朝5時40分。
樺太の西海岸に位置する真岡の街に、北緯50度の国境を越えて侵攻してきたソ連軍が襲来します。
ソ連軍は、日本が降伏し終戦をむかえた8月15日を過ぎた後も、武力をふりかざすのをやめませんでした。(終戦前後の詳しい経緯はこちらでご紹介しています)

このとき、真岡郵便局には、ちょうど電話交換手の女性たちが宿直していました。
ソ連軍の侵犯を受けて、子ども・女性・老齢者を優先して本土に避難させる緊急疎開が数日前から行われていましたが、電話交換手たちは「大切な仕事だから」と残留していました。

電話交換手とは、当時において電話をかけるために、いなくてはならない職業でした。
今は、相手の電話番号を入力すれば自動的に直接相手につながります。
しかし当時の電話機には番号を入力する部分がなかったため、電話をかけるとまず交換手につながり、そこでかけたい番号を伝えて、手動でつないでもらっていました。

こちらは戦後のものだそうです

情報は、いつの時代もとても重要で貴重なものです。
特に非常時は、離れて暮らす人の安否が気になりますよね。さまざまな通信手段がある現代でも、災害が起こったときなどには回線やサーバーがパンクしてしまうことがあります。
また、戦争においても情報は命綱でした。その証拠に、ソ連軍は国境を越えた直後に、奇襲の一環として国境付近の電話線を切断しています。

彼女たちは情報の大切さを肌で感じていたのでしょう。
「わたしたちが残って、不安に怯える人々を支えなくては」と、職務を全うしようと決めました。

ソ連軍の攻撃が激しくなり、ついに郵便局の窓の外でも砲撃戦が始まってしまいます。
郵便局が占拠されるのも時間の問題で、捕まってしまったらどんな目にあうかわからない。
もはやこれまで…と覚悟した彼女たちは、交換台に向かい、冒頭の言葉を残します…。

そんな彼女たちの決死の言葉を受け取ったのが、猿払村の電話中継所でした。
こちらは、その電話中継所の跡地に建てられた「電気通信ゆかりの地」記念碑です。
国道238号線から浜猿払の海岸のほうに住宅街を抜けていったところにあります。

当時、樺太との電話通信は、樺太の女麗(めれい)とここ浜猿払の間に海底ケーブルが敷かれることでつながっていました。

ケーブルが奥の標石の下を通り樺太に伸びていました

樺太では女麗から豊原・大泊までそれぞれ1回線ずつ設け、そして女麗と猿払をつないだことで、猿払を経由して樺太から札幌まで接続することができました。
さらに札幌から東京までを連絡させることで、東京-樺太の豊原まで総延長1,700kmもの電話回線が完成しました。1934(昭和9)のことです。

その後、稚内-札幌のマイクロ回線が開通し役目を終えた電話中継所は、1964(昭和39)に廃所となりました。
こちらの記念碑は、殉職した9人の乙女の慰霊と恒久の平和の祈念、電気通信の功績を伝えるものとして建っています。

最期の言葉を残した後、9人の電話交換手たちは服毒自決を図り、尊い命を散らしました…。
これが、大変痛ましい「真岡郵便電信局事件」の顛末です。
同じく、まだ若い女性たちが戦争のために命を散らした沖縄のひめゆり学徒隊と対比して、「北のひめゆり事件」とも呼ばれています。

『天北原野』では、終戦後のソ連軍の侵攻下において、豊原で孝介が真岡からの避難者を受け入れた際、実際に目撃した彼らから聞いた悲惨な事件のひとつとして触れられています。

また、この事件は、『天北原野』のみならず『続氷点』でも取り上げられています。
(※この先『続氷点』のストーリーに関わる記述がありますので、未読の方はご注意ください。飛ばしたい方はこちら




主人公の一人、医師の辻口啓造が、親友の医師・高木に誘われて道北旅行に出かけます。
稚内に入る前日に豊富温泉に宿泊した際、高木が部屋に手配した盲目のマッサージ師が、かつて啓造の病院で事務員をしていた松崎由香子だということが判明します。

この十年前、まだ辻口病院で働いていた由香子は、啓造を強く慕っていました。
ですが、妻子ある身の啓造への想いは許されることがなく、そこにつけこんだ眼科医の村井に弄ばれてしまいます。
それまで由香子は啓造への想いを必死で伏せていましたが、極限の精神状態で啓造に電話をかけ、とうとう「院長先生の子どもを生みたいんです」と伝えてしまいます。
しかし、啓造は由香子の想いを拒否。
そしてその直後に由香子が失踪してしまったため、由香子は啓造の心にわだかまりを残していた存在でした。

由香子は樺太で生まれ育ち、両親とは早くに死別。
敗戦後は兄と二人で稚内に引き揚げて住んでいましたが、兄が結婚し一人になった後、辻口病院に勤務します。
しかし上記の経緯で病院を離れ、旭川から遠く離れた豊富でマッサージ師となりますが、精神的なダメージも悪影響を及ぼしたのか、両目の視力を失ってしまいます。

由香子が樺太出身だということを覚えていた啓造が、翌日稚内でこの碑を見た際に、殉職者の中に同じ松崎姓の名前を見つけ、「由香子の近親者ではないか」と想像します。
(実際の殉職者の中に、おそらくお名前を借りたのではないかと推察される方がいます)
そして、その流れで高木に由香子のことを打ち明け、このまま天涯孤独で果てる身かと思われた由香子にも転機がおとずれることになります…。

なお、ここでは啓造と高木が「氷雪の門」とサハリンの島影を見て思いを馳せる場面もあります。
また、由香子が後日ある人物と、自分が引き揚げてきた稚内港の防波堤へ赴くくだりもあります。
(この記事を書く際に改めて読み返して気づきました…リサーチ不足ですみません)

(『続氷点』に関わる記述は以上です)

複数の作品で同じスポットを登場させたということは、それだけ強く三浦綾子の心に残っていたということでしょうか?
三浦夫妻も取材で道北をおとずれたのかも…? と思うと胸が熱くなります。

さて、話を事件に戻します。
戦後、生存した当時の同僚や上司の証言によって悲劇の詳細が知られることとなりましたが、本当は何が起こっていたかを知るすべが限られているため「職務に応じることや自決を強制したのではないか」と主張する遺族側との対立もあることにも触れておきます。
自決するための毒薬の入手経路についても、諸説あるそうです。(もし上から支給されたものだとしたら、とんでもないことです)

「9人の乙女が決死の想いで人々を助け殉職した」という尊い犠牲に、自然と手が合わさります。
しかし、上記の事情も踏まえると「命を懸けて職務を全うした精神は素晴らしいものである」という美談にしてしまうよりも、彼女たちの冥福を祈るとともに、人々をそんな極限状態まで追いやってしまう戦争の愚かさ、悲惨さに目を向け、後に続くことがないよう心に留めておくことが大切なのではないかな…と個人的には思っています。

なお、稚内では、毎年8月20日に「氷雪の門・九人の乙女平和記念祭」を行っています。
この悲劇を二度と繰り返さないよう、そして命の尊さと平和の大切さを、忘れずに次の世代へつないでいく決意を毎年新たにしています。

まず、過去の悲劇を知ること。そして、過ちを繰り返さないと決意すること。
これが、現代のわたしたちにできる、彼女たちを含む戦争犠牲者への手向けなのではないでしょうか。

ゑむゑむ@バーズ

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