今回は、三浦綾子作品の中でも「暗い」「つらい」「読後感が爽やかじゃない」と言われがちな名作『天北原野』について、わたしなりの考察をまとめてみます!
※CAUTION!
・この記事では、『天北原野』の展開および結末について言及していますので、閲覧の際はご注意ください。
・これはあくまでも、もろもろの知識が足りていない一読者および一ファンの一考察であるということを何卒ご了承ください。
・原作未読でも「ネタバレ上等!」という方は、この記事をご一読いただいたうえで作品を楽しんでいただけたらとってもとっても幸いです! 一緒に沼りませんか???
What is 『天北原野』?
(参考:三浦綾子記念文学館公式サイト「はじめの一歩(無料立ち読み)」『天北原野』)
・北海道の中でも道北地方(ざっくり言えば旭川以北。具体的には苫前町~豊富町~猿払村~稚内市)と樺太(現:サハリン南部)を舞台にした現代小説
・時代設定は、第一次世界大戦終戦から少し経った1923(大正12)から、第二次世界大戦後の1945(昭和20)頃まで
・連載期間は1974(昭和49)11月~1976(昭和51)4月。発刊は、1976年3月(上巻)、同年5月(下巻)
簡単なあらすじ
・もともとお貴乃と孝介が愛し合い、将来を誓っていたときに、お貴乃に横恋慕した完治がさまざま計略を練り、孝介を家族ごと村から追い出し、お貴乃を無理やり自分のものにする。
・お貴乃を奪われた孝介は喪失感から一心不乱に樺太にて漁業に打ち込み、その結果、網元として財を成し大富豪となる。一方でお貴乃は、孝介から返事が来ないことに絶望し、公に被害を訴えることも完治に復讐することもできず、かといって自分の命を捨てることも選べずに死んだつもりで完治に嫁ぎ、やがて3人の子を産む。
・完治一家が稚内で海産物店を営んでいるときに、突然孝介が来訪し、完治の妹のあき子に結婚を申し込む。そして完治一家も樺太に移る。
・しばらくのちに第二次世界大戦が始まり、日本は敗戦。旧ソ連により樺太が武力侵攻される中、お貴乃は命からがら樺太を脱出するが…。
『天北原野』の特徴
まず、『天北原野』を読んだ人がどのような感想を持つのか、わたしの感想も含めて、いくつかのレビューサイトをざっと見て目についたものをまとめてみます。
・どこまでも希望がない、救いがない、誰も報われない
・お貴乃よ、そこまで耐えることなくない? いくらなんでもいい人すぎじゃない?
・というか、なぜお貴乃だけこんなにつらい目にあうんだ…
・ほんで完治は好き放題やって結局改心しないんかい!
・総じて「理不尽」あるいは「残酷な運命」としか言いようがない
・壮大な名作なんだけど、読後のカタルシスは皆無。終始モヤモヤが残る
…と、展開について、なかなかネガティブな印象を持たれがちです。
そして、これらはわりとそのまま、「三浦作品における『天北原野』の特徴・特色」とおおむね一致するのではないかと思います。
他の三浦作品…たとえば、『天北原野』の少しあとに書かれた長編小説の『泥流地帯(含・続編)』は、自然災害により甚大な人的・物的被害が出るという展開こそたしかに悲惨ですが、ラストはなんとなく爽やかで、希望の芽生えを感じさせる前向きなものになっています。
一方で『天北原野』は、展開もつらい上にラストも報われない。底抜けに暗い。
間違いなく名作だし、個人的には好きなのですが、「三浦綾子って何から読んだらいい?」という人に対して、これを薦める勇気はさすがにない…かな…
むしろ「初手が『天北原野』で三浦綾子にハマる人っている?」とさえ思ってしまいます。
三浦綾子をそこそこ読んだ人に薦めるとしても、「かなりツラいからメンタルが大丈夫なときに読んでね」と申し添えずにはいられない、そんな作品です。
『天北原野』から何を汲み取るか
では、そんなどんよりとした『天北原野』にはどんな思いが込められているのか?
文字どおり”命を削って”数々の作品を生み出していた三浦綾子が、伊達や酔狂でこんな大長編を書くはずがありません。
格好つけると「三浦綾子は『天北原野』を通して我々に何を伝えたかったのか?」
というより、もっっっと泥臭く
「わたしは『天北原野』をどう消化すればよいのだろうか」
ということを考えるに至ったのでした。
そして、なんとか以下の3点を見出しました。
②「人が人を裁くことの恐ろしさ・愚かさ」
③「人生において苦難にぶつかったときは…」
いま個人的に聖書を読んでいたり、キリスト教のことを学んでいたりするので、そちらからもヒントをもらいながら、1つずつ以下に述べていきます。
かなり長くなりますので、飲み物やおかしをかたわらに、気軽にお付き合いください。
①誰も傷つけずに生きていくことはできない、人間の罪深さ
これは、三浦綾子が生涯にわたって多くの作品の中で書いている、三浦作品におけるゆるぎないテーマの1つだと思っています。
いわゆる、キリスト教における、誰もが負っている「原罪」の考え方です。
「原罪」と書くとひどく大げさに聞こえて、「わたしはそんな罪を犯したおぼえはない!」と反発したくなりますが、キリスト教における「罪」とは、たとえば嘘・嫉妬・悪口というような、法律で裁かれないほどの微細なものも含んでいます。
さらに、キリスト教のベースには「人は誰しもが、そのような罪を犯してしまう性質を持っている」という教えがあります。
そして、三浦綾子は「それを自覚しないことこそが最大の罪だ」ということを何度も訴えています。
他人の過失は鬼の首をとったように責め立てるのに、自分が同じことをしても「仕方ないじゃん☆」とてへぺろで済ませたり、責められると反省せずに開き直ったりする人間の姿です。
(人の持つ「罪の性質」については『光あるうちに』というエッセイでわかりやすく説明されています。)
思い当たる節しかなくて、たいへん耳が痛い話です…(´ω`)
さて、『天北原野』の展開においては…
完治はいわずもがな、わかりやすく罪を犯しています。というか普通に犯罪。
現在でいうところの放火罪(孝介の家に火をつける)、不同意性交等罪、強盗罪(樺太脱出時に他人の所有物を奪う)等々…数えきれません。
彼の所業はお貴乃の人生を大きく狂わせ、メタ的に言えば『天北原野』という物語の、すべての発端となっています。
また、故意なものだけでなく、作中では「他人のためにやったことでも、知らぬ間に誰かを傷つけている」ということにも言及されています。
具体的には、お貴乃が捨て鉢になって須田原家に嫁ぐまでのいきさつの中で、孝介とのすれ違いが描かれているのですが、極めつけは「ひさしぶりに再会した孝介があき子に結婚を申し込んだこと」でしょうか。
孝介的には、お貴乃と義理の家族になることで、合法的にそばにいられるし自然なかたちで支援もできるという思いがあったのでしょう。
ただし、上記の思惑は読み進めていくとお貴乃(と読者)に明かされるので、この時点ではあまりに突発的すぎて「孝介マジで何考えてんの!?!!?」と映るのです。
さらに言うと、あき子は孝介の教師時代の教え子なのですが、結婚しても孝介はあき子に指一本ふれない生活を送ります。
また、完治が妾を囲ってお貴乃を悩ませていることに対し、孝介は「その妾(芸者)に遠い地で店を持たせる」というかたちで、いわば財力で解決しようとします。
しかし、これが「孝介には妻そっちのけで入れ込む芸者がいる」という歪んだかたちであき子の耳に入ってしまいます。
そして、抱いてもらえない不満と、孝介への不信感が爆発し、とうとうあき子を不倫に走らせてしまいます。
孝介がお貴乃を思って突き進んだ結果、誤解を生み、あき子を傷つけてしまい、さらなる悲劇を引き起こしてしまいました。
作中では、樺太に渡ってこれらのことが起こり、明るみになったあと、お貴乃と孝介の会話の中で
「誰かが犯した罪による重い十字架は、他の誰かが背負わなければならない」
という表現が出てきます。
ここでは完治が名指しされているのですが、苦い経験をした孝介の「結局、人はお互いに傷つけあって生きている」という発言に、巻き込まれた被害者である自分たちも例外ではない、人の持つ「罪の性質」が集約されているのではないかと思います。
さらに終盤には、2人の過去を知ってしまった人物がある選択をしてしまうことに…。
また、作中では子どもも数人出てきますが、彼らもすでに罪の性質を持っている描写が見受けられます。
完治とお貴乃の長男・加津夫は、父の妾である芸者の梅香から金銭的な援助を受けながら関係を持つに至ってしまい、お貴乃を悩ませます。
長女の弥江は真面目で思慮深く、よく母を手伝うよい子ですが、顔がお貴乃に瓜二つで、義理のおじにあたる孝介を慕い、異性として心惹かれていく様子は、お貴乃を人知れず苦しめます。
戸籍上は孝介とあき子の息子である京二は、あき子と、当時あき子の家に出入りしていたロシア人との不倫の末に生まれた、不義の子です。
見るからにハーフの京二は純粋に育っていきますが、傍目から見ても何かがあったことを勘ぐらせますし、孝介への誤解が解けたあき子にとっては、自らの過ちを嫌でも認識させられる、疎ましい存在となってしまいます。
他にも、ここには到底書き切れないぐらい、当人たちが意図しているかしていないかに関わらず、互いが互いに傷つけ合い、思わず目を覆ってしまいたくなるほどに、利害関係がぐちゃぐちゃに絡み合って展開していきます。
②人が人を裁くことの恐ろしさ・愚かさ
こちらと①は、ベースに先ほど述べた「原罪」の考え方があると思います。
ではなぜ①にまとめず別項に起こしたのか?
それは、『天北原野』が三浦作品の中でも特にこのことを訴えているのではないかと感じたからです。
なお、ここで言う「裁く」とは、
② ①を経て、他者が受けるべき報いを定めること、および手を下すこと
を指すものとします。
(ⅰ)キリスト教では
まず、前提として「なぜキリスト教では『人が人を裁くこと』が悪いこととされているか」を説明します。
「人が人を裁いてはならない」というのは、イエス・キリストの教えです。
新約聖書「ヨハネの福音書」第8章3~11節には、次のお話が載っています。
女を連れてきた人たちは、イエスにこの女をどうするべきかたずねた。
(*当時は、姦淫を犯した女は石打ちの刑に処されるきまりだった)
イエスはただ一言『この中で罪のない者だけが女に石を投げなさい』と言われた。
それを聞いた人たちは、一人、また一人と立ち去り、とうとうイエスと女だけが残った。」
このお話は有名ですよね!
ちなみにこのあと、イエスは女に「わたしもあなたを罰しません。もう二度と罪を犯さないように。」と告げ、帰らせます。
また、新約聖書「マタイの福音書」第7章には次のように書いてあります。
(こちらは短く、そのままでもわかりやすいので『聖書 新改訳2017』より引用してご紹介します。)
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
ここで言う「兄弟」は血縁関係にある者だけではなく、神様から見たクリスチャン同士を指す言葉なので、赤の他人も含みます。
自分の目にごんぶとの梁が刺さっているにも関わらず、他人の目の微細なちりを指摘するのは、あまりにも自分の罪について盲目であると指摘しています。
これらの聖句は、「罪ある者に人を裁く資格はない」ということを説いています。
(ⅱ)三浦綾子の主張
三浦綾子が繰り返し多くのエッセイの中で語っているのが
「人間は簡単に私情を挟むし、認知能力(物事をとらえる能力)にも限界があるので、物事の一面だけを見て決めつけるのはよくない」ということです。
Aさんが先に建物に入りましたが、Aさんは急いでいて、うしろのBさんには気づかず、後ろ手で勢いよくドアを閉めました。
続いて建物に入ろうとしていたBさんは「この距離ならAさんは自分に気づいているはずなのに、目の前でドアを乱暴に閉められた。普段は楽しくお話ししているが、Aさんは本当は自分のことが嫌いなのだろう」と感じてしまい、以来Aさんにそっけない態度をとるようになりました。
AさんはそんなBさんの態度を受けて、なぜかBさんに嫌われていると思い込み、2人は疎遠になってしまいました。
これは、過去にわたしの周りで実際にあった出来事です。
先ほど定義した「裁く」という行為が、この例では何を指すかを整理してみます。
①-1「Aさんにわざとドアを閉められた」と考える
①-2「Aさんは自分のことが嫌いなんだ」と考える
②「Aさんにそっけない態度をとる」
①-1「Bさんにそっけない態度をとられ始めたが、心当たりがない」と考える
①-2「自分は悪くないのに、Bさんに嫌われている」と考える
②「Bさんにそっけない態度をとる」
ここでもしBさんが、①と判断した段階で②に移らずに、あとでAさんに確認して誤解だったことに気づけたら、きっとBさんは②に移ることはなかったと思います。
あるいは、もしAさんがBさんに「ごめんなさい、わたしが何か悪いことをしてしまったかな?」とたずね、Bさんが打ち明けてくれて誤解が解けていたら…。
このように文章を読んでいるから客観的に判断できるものの、いざ当事者になるととても難しいですよね。
怒りで冷静に考えることができなかったり、心当たりがないのに謝ることなんてとんでもないと意地をはってしまったり。
そして、こういうことは残念ながら、大なり小なり日常にありふれていますよね…。
なので、三浦綾子は「すぐに決めつけて行動に移す前に、相手の事情やさまざまな状況を考慮して、一旦立ち止まってみてはいかが」と、エッセイなどで訴えています。
(ⅲ)作中では
この訴えを実感させるかの如く、『天北原野』ではさまざまな「裁き」が出てきます。
・孝介があき子を破格の結納金で娶ったことも、自分からお貴乃を奪った完治への「金持ちマウント」があったのではないか
・孝介の求婚についてお貴乃は、しばらくのちに孝介から真意を明かされるまで「孝介を裏切って完治と結婚した自分への復讐ではないか」と思い込んでいた
・あき子が、自分を抱いてくれない孝介への当てつけでロシア人との子を産んだこと
・…and so on(作品を読んで、思う存分ウンザリしてください)
これらの「裁き」は、人を傷つけ、さらなる悲劇を呼んでいます。
上記の例は「誤解によるすれ違い」ですが、悪質なものだと「自分の思い通りにならない物事・人を無理やり思い通りにさせる」という「裁き」もあると思います。
いわゆる、鳴かないホトトギスを殺すか、どうにかして鳴かすかという行為です。
作中では、完治と父・伊之助の、金もうけに絡んだあくどさが際立っています。
そして、物語の終盤に、三浦綾子は特大かつ最悪の「人による裁き」をぶちこんできます。
第二次世界大戦、すなわち戦争です。
「あの国はうちの国が望まないことをするから武力で従わせる」という「裁き」が、多国間で大規模に、そして平然と行われるのが戦争です。
抵抗すら許されず、戦争に加担させられる大人たち、特に徴兵される男たち。
敵の侵攻や、継戦による生活のひっ迫によって、なすすべなく蹂躙される人々。
作中では、日本の敗戦と同時に樺太を追われ、お貴乃たちもなんとか北海道に逃げてきますが、その途中で命を落とす人たちも大勢いました…
(引き揚げ時の惨劇については、以前にまとめたこちらの記事をどうぞ)
個人間か多国間かなど、規模の大小を問わず、こうした争いをなくすために、キリスト教では「人が人を裁いてはならない」という言葉で諫めているのです。
『氷点』にも出てきた「汝の敵を愛せよ」という言葉も有名ですね!
(ⅳ)そうは言っても
人が人を裁けないのなら、悪い奴がやりたい放題しても罰せられない、無秩序な世の中になってしまいます!!
そこで現在はご存じのとおり、ほとんどの国で独自の「法律」が制定されています。
(多国間での戦争については、国際法や国際連合憲章などで禁止されていますが、これらは罰則やすべての国への強制力を持つものではありません。なぜだ…)
日本における法律の意義については、法務省HPでは以下のとおり解説されています。
(法務省 法教育に関する教材:高校生を対象とした教材「はじめに」より)
現代社会においては、個人が自由に活動できる範囲が広がり、その生き方、価値観が多様化していますが、その一方で、一人一人がそれぞれの自由を追い求める中で、他者の自由と衝突し、紛争が起きることもあります。
そうした中で、お互いを尊重しつつ、公正に紛争を解決するため、あるいは紛争を未然に防ぐための一定のルールとして、法は存在しています。
そして、法の背景には、個人の尊重、自由、平等などの基本的な価値が存在しています。
また、法に基づき、公正な手続を通じて、紛争を解決するための仕組みとして、司法制度が存在しています。
ただし、キリスト教における「人が犯す罪」の定義は先述のようにとっても広いので、「法律に引っかかる罪・引っかからない罪」の区別について、この考えをふまえると
これに付随して、司法制度の解釈は
ではないかと考えました。
この考え(主に前者)がわたしたち現代日本人の無意識にあるので、キリスト教の観点からみて「すべての人間は罪を犯しています」とズバッと言われたときに「えっ! 法律で裁かれるようなことはしていないんだけど…」と戸惑ってしまうのではないかとも思います。
「罪を犯す=裁判にかけられたり罰を受けたりするようなよっぽどの悪いことをする」という概念があるためです。
しかし、人の行動を制約する規律としての法律も、人間が作ったものなので、残念ながら完全なものではないのかも…と思います。
完全であれば世界中どこでも同じものが適用されるはずですが、国によってバラバラです。
死刑制度についても賛否両論がありますよね。
(ちなみに:光世さんはこちらで死刑制度について反対の意志を表明しておられました)
「法律の抜け穴」という言葉も存在しますし、明るみになって司法に持ち込まれない限り、罪を犯しても罰を受けない例はたくさんあります。
また、被害の訴えがあって調査したものの、「証拠不十分で不起訴」というフレーズも日常的にニュースなどで耳にします。
作中では、先述のとおり、完治がたくさん「法律に引っかかる罪」を犯していますが、罰せられていません。
さらに、あき子の不倫については、当時は妻が夫以外の男性と関係を持った場合に逮捕されるという「姦通罪」がありました。(近所の人妻がしょっぴかれる描写もあります)
誤解がとけたあき子は孝介にすべてを打ち明けますが、自分にも責任を感じた孝介があき子を不問とし、子もかばったことで、あき子は逮捕されずに済んだのです。
…などと、法律関係の方々にケンカを売っているような表現をしてしまいましたが、「人間の作った法律にはどうしても限界があるのでは」というニュアンスで捉えていただければ幸いです。
(お貴乃は様々な要因で被害を訴えることはできませんでしたが、もし実際に何らかの被害に遭ったときは、法律に則って、然るべき措置を取りましょうね)
③人生において苦難にぶつかったときは…
では、誰が人を裁くことができるのでしょう。
こちらについては、例えば新約聖書『ヤコブの手紙』第4章12節にこう書いてあります。
すでにおわかりのことと思いますが、キリスト教的には、それは神様のみということになります。
(「律法」とは、旧約聖書で神様が預言者モーセに与えたものです。広く「神様が定めたルール」ととらえることもできます)
少し話が飛びますが、今、巷で人気の物語(小説・映画・ドラマ・漫画etc…)は
「ずっと理不尽に耐えて、正しくあり続けた人が最後には報われる」(プラスの報い)
という勧善懲悪モノや、終盤に大どんでん返しがある展開が多いように思います。
でも『天北原野』は違います。
大半の読者は完治に〇意をおぼえると思うのですが笑、冒頭にもちらっと書いたとおり、当の本人は悔い改めず、最後の最後まで自分勝手に振る舞ってフェードアウトします。
というか、読後のモヤモヤの93%は完治が担っているといっても過言ではない。笑
(難波さんいわく「自分勝手な奴が猛省するのは別の作品(*リンク先ネタバレ注意!)でやりきったのかなあ」 ←笑笑)
さらにお貴乃は、最後の最後で喀血し、自分の体を蝕む病魔の存在を悟ります。
読後のモヤモヤの5%は、お貴乃が周囲に被害を訴えたり、完治に復讐したりしなかったことや、次々と降りかかる災厄にひたすら耐えてきたお貴乃が報われない結末に対してではないでしょうか?
(残りの2%はその他もろもろ)
そして現実も、多くの創作物のような勧善懲悪・因果応報に終わるとは限りません。
自分や他人にひどいことをした奴が、反省せず罰も受けていない。
または突然、不慮の事故や災害に巻き込まれたり、病気にかかったりするかもしれません。
このような苦難にぶつかったときの心構えを、もしかしたら三浦綾子は『天北原野』で示しているのかもしれないな、と思いました。
人生における苦難は上記のようにさまざまありますが、『天北原野』では特に「人の行動によってもたらされる苦難」について扱っていますので、こちらに絞って展開していきます。
(余談:一方、「天災による苦難」に焦点を当てたのが『泥流地帯』です)
三浦綾子はたびたび「『愛する』というのは『ゆるす』ことだ」と表明しています。
そのまんま『明日のあなたへ 愛するとは許すこと』という題名のエッセイもありますし、『ひつじが丘』の中でも「愛とはゆるし続けること」だと登場人物に言わせています。
「ゆるす」とは、我々が普段使っている「人の過失をとがめない」という意味ももちろんありますが、お世話になっているクリスチャンの方に、キリスト教における「ゆるす」の意味を教えてもらいました。
②許せない物事・人への怒りや悲しみをすべて神様にゆだねること(行動の主体は人間)
この②の意味を聞いたとき、わたしはまっさきにお貴乃のことが頭に浮かびました。
新訳聖書「ヤコブの手紙」第1章20節「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(新改訳2017)という聖句のとおり、お貴乃の周りの人たちは、自分が嫌な目にあった怒りのままに行動した結果、泥沼状態になってしまいました。
しかし、お貴乃はひたすら耐えていきます。
そうは言っても、全てをゆるすなんて、とてもできそうにないことですよね…。
そう感じるとおり、敬虔なクリスチャンであっても、やはり「そう簡単にはできない、とっても難しいこと」だそうです。
『塩狩峠』にもありますが、聖書の教えを頭で理解することはできても、実行し続けるのはとってもとっても難しいことなのです。
特に「ゆるす」ことについては、クリスチャンは「難しいけど頑張って実行していこう、なぜなら神様が罪深い自分をゆるしてくださったのだから」と考えて心がけているそうです。
一方、お貴乃が特段何かの信仰を持っていたという記述はありませんが、お貴乃は誰かに怒りをぶつけることもせず、言いたいことも心にしまって、ただじっと耐え忍びます。
耐えて耐えて耐え忍んだ結果、次々と新たな困難が降りかかってきても動じず、常に心が凪いでいるかのようなお貴乃の様子は、たびたび孝介に「お貴乃が、自分のはるか手の届かないところにいるような感覚」をおぼえさせます。
これは「お貴乃は常人が簡単に到達し得ない・理解できない境地に立っている」ということの表れなのではないかと思います。
当のお貴乃は、どんな気持ちで数々の苦難を耐え忍んできたのでしょう。
作中には、お貴乃が「自分には我慢することしかできない」と語る場面や、「耐え忍ぶのは人間にしかできないことなのだから、耐えなければ」と心の中で自分に言い聞かせる描写もあります。
自分がつらい目にあっても、親や子ども、その他の大切な人たちを思い、自分にできること(お貴乃の場合、今でいう「専業主婦」として家庭生活を守りながら)じっと耐えていきます。
ちなみに、後者の「人間にしかできないこと=動物にはできないこと」は、他に「信仰をもつこと」もそうだと言われています。
目には見えませんが、「神様」という概念を持ち、信じ、従うことです。
さらに言うと、本能のみで行動する動物と違って、「人間は自由に意志を持って活動できる生き物である」とも言えます。
これは、「人間は、いいことも悪いことも、自分の意志で選び取って行うことができるのだから、自分の行動に責任を持って、いいことをしていこう」と言い換えることもできます。
お貴乃の場合は、次々と降りかかる災厄に翻弄されているように映りますが、人間にしか持ちえない強く固い意志で、じっと耐え忍んでいたのです。
まとめ
(ここからは特に、三浦綾子の考えとは関係ない、もりもりの私見となりますのでご了承ください)
これまでの論及からは、お貴乃を例に出して「他人に何をされても、表面上は『ゆるす』ような行動をとって、苦難をじっと耐え忍んできたお貴乃はすばらしい」というような印象を受けられたかもしれません。
たしかに、お貴乃のように耐え忍ぶことは、なかなか容易にはできないことだと思います。
だからといって「つらいことや悲しいことがあっても一人でひたすら耐え忍ぶべきだ」というふうにまとめるのは、「我慢は美徳」という風潮がすでに過去の遺物だととらえられている今の時代にはなかなかコミットしにくいのかな…とも思います。
特に、作中の舞台である戦前~戦後にかけては、国をあげて戦争をしているような異常事態だったので、お貴乃も「ただじっと耐え忍ぶしか方法がない」と言わざるを得ない状況だったのではと思います。
ですが、今は令和です。
自分が誰かにつらい目に遭わされたとき、苦しいときに、決して怒りのままに報復するようなことはせず、解決に向けて歩み寄ること、ひいては、解決に取り組む余裕を持つことが肝要なのかなと思います。
怒りを感じたとき、そのままの勢いで怒りを放出するのではなく、意識的に一呼吸置く「アンガーマネジメント」という心理的なトレーニング法もありますよね。
他人とトラブルになったときは、少し冷静になって胸に手を当てて「もしかしたらわたしの態度も良くなかったのかもしれないな」あるいは「自分も今までに同じことをした経験があるかも…」ということや、相手の立場だったらどうかなどを一歩引いて考えることができれば、建設的に解決に臨むことができ、それ以上の無用な争いは避けられるかもしれません。
また、それが難しければ、そっと離れたり、頼るべき人や手立て(組織・機関・医療など)に心の荷物をあずけたりするのも、ひとつの「耐え忍ぶ」方法なのではないかとわたしは考えます。
いわずもがな、犯罪被害に遭ったときは現行法に則って、然るべき機関に相談しましょう。
なお、(世の宗教の中で少なくとも)キリスト教においては、これらの「現実的に人間がとれる手立て」を超越したところに「神様の救い」があるとされています。
上記の手立てには限界がありますが、神様が与える愛や救いには限界も差別も終わりもないので、神様に感謝し、怒りも悲しみも委ねましょうという考えです。
また、「神様が必ず備えてくださるという脱出の道=救いは、わたしたち人間の考えが到底及ばない方法がとられることもある」という考えもあります。
ぱっと見でマイナスの出来事も、長期的にみるとプラスだったと気づけたら大きな収穫になりますよね*
それから、令和といえば…
近年、インターネットやスマホの普及とともに、さまざまなサイトやツール(古くは掲示板やブログから、最近はSNSや動画投稿サイトなど)が発達し、個人が簡単に意見を発信できる世の中になっています。
人々の交流や前向きな議論が活発になった一方で、自分が気に食わない人や物事に攻撃的な態度をとったりつるし上げたりすることによって、さらにその流れが他の人たちを巻き込んで大規模な騒動、いわゆる「炎上」状態になることが頻繁に&日常的に見受けられるようになりました。
あくまでネットでの炎上だから~と侮ることはできず、勢いが苛烈になるあまり、当人の身元を特定したり、嫌がらせが現実世界にまで及んだりなどして、簡単に人一人を退職や退学、最悪の場合は自殺に追い込んでしまうこともあります。
わたしがとっても怖く感じるのは、人が人を簡単に「コイツはこんなひどいことをしているのだから、罰を受けるべきだ!」と裁いている状態、しかもインターネットという匿名の覆面をかぶった(つもりの)人たちが他人にガンガン石を投げつけているということです。
彼らは「正義のため~」「社会をもっとよりよくするため~」と謳ってはいますが、それは本当にごく一部に限られていて、動機の多くは上述のとおり「自分が気に食わないから」とか、うさばらしのためなのではないかと感じます。
石を投げている自分だって、何かのきっかけで石を投げられる側に回るかもしれないということには考えが及ばないまま…
話を『天北原野』に戻します。
もし、三浦綾子がこれを意図していたとしたら本当に壮大だなあ…と感じたのが、
ということです。
わたしも読みながら「完治マジで許せん…みっともなく許しを請いながらむごたらしく〇なないかな(外道)」とかめっちゃ思ってしまったのですが(゜ω゜)、上述のようにいろいろ考えた末に「自分は果たして完治を裁ける立場にあるのだろうか?」と思い至りました。
心のどこかで「自分は完治ほど悪いことはしていないのだからセーフ!」と、我が身と比較して完治を下に見て、「コイツはこんな悪いことをしてるんだからバチが当たるべきだろ! 天罰はよ!!(机バンバン)」とガンガン裁きながら読み進めていく、自分の醜い姿に気づいたのです。
(悪いことをしたら相応の罰を受けるべきだという考えはキリスト教にもありますが、上述したとおり、裁くのは人間ではなく神様です)
綾子さんは、本を出版するたびに、光世さんに感謝のメッセージを贈っていましたが、『天北原野』出版の際は「登場人物はみなわたしたち(三浦夫妻)の隣人だった」というメッセージを贈っています。
この物語の元凶である完治ですら、完全に悪人のように書かれてはおらず、人なつっこく、人当たりがよく、仕事仲間や部下に慕われている、という描写も随所に見受けられます。
お貴乃も、「こんな完治も、自分の大事な子どもたちにとっては大好きなお父さんなのだ」「伊之助にとってはかわいい息子なのだ」と、さまざまな視点から完治という人物を捉えています。
ゆるす・ゆるせないは一旦脇に置いても、その人との関係性や切り取り方によって、その人の見方はグラデーションのように変わるので、本当に100%悪い人はいないのではないかと、
誰かに悪いことをした人間は、ただその1点だけで「あいつは根っからの悪人だ」と決めつけられるべきではないのだろうと、
そしてそれは自分にも当てはまるので、それを振りかざして他人を攻撃することは自分にも刃を突きつけているのだということを一人ひとりが心にとどめて他人を慮っていけば、
何かの苦難にぶち当たったときも、私怨におぼれることなく対処することができ、それ以上の無用な争いは食い止められるのではないかと、
わたしは、『天北原野』を読んで、心がけていこうと思いました。
本当に長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます!
もちろん、まだ消化しきれていないこともたくさんありますし、読んだ方それぞれの解釈や感想があると思います。
それをぜひ交流できたら、いち三浦綾子ファン、いち『天北原野』ファンとしてこんなにうれしいことはありません!!
と、いうことで!
『天北原野』の文学散歩ができることを、稚内で首を長~くしてお待ちしております!!笑
お付き合いいただき、本当にありがとうございました*
ゑむゑむ@バーズ
コメント
『天北原野』が発表されて以降、何人もの人がこの作品を論じられていると思うのですが、ゑむゑむさんのこの評論は、なかでもトップクラスなのではないかと感じました。
感想文とは違うし、いくつかの視点から文章を構成されていて、読むほうも「長い」なんてぜんぜん思わなかったし、もう一度『天北原野』を読み直したいと心から思いました。
ちなみにワタシはこの作品、三浦作品のなかでもかなり初期に読んだのですが、ネガティブなイメージよりも、行ったことのない樺太の風景や、道北の景色、林業や漁業が盛んだったころの人々の暮らしなどを想像しつつ読んだので、意外と楽しく読めた思い出があります。『海嶺』もうそうだったのですが、スケールが大きい印象がありました。果て遠き…なんとか、という旭川近辺で完結する作品の真逆ですね(笑)。
この文章、綾子さんや光世さんが目にしたら、どんなコメントが返ってくるのか、そんなことまで想像してしまいました。
有名な三浦作品…『氷点』なんかは解説本があったり、『塩狩峠』も記念館があったりしますよね。たくさんの方がさまざま考察されてたり。
でも『天北原野』に関しては解説や解釈をほとんど見つけることができなくて…。
あんなにモヤついた終わり方なんだから、作品に込められた思いとかみんな気になるよな〜って思っちゃう「THE・気になることすぐ調べちゃう現代人」なんですけど笑、見つからないことが逆に「なければ自分で考えるしかないじゃない!」という思いにつながって、一考察として記事にしたかたちです。もちろんこれが正解ではありませんが、「こう考える人もいるのね」から各々の楽しみ方につながっていけばと。
なるほど! それもよい文学の楽しみ方のひとつですよね(*´ ω `*)
そう言っていただけて大変恐縮ですが、ご本人様に見せるのはちょっと怖いです( ° ω ° )笑 故人なので好き勝手言えますけどね笑