印象に残ったオノマトペ語句の7語目です。
と、その時、口の中でムニャムニャふしをつけて読んでいたクメの声がぴたりと止んだ。
三浦綾子『裁きの家』[三十六]
この語句も、今のところ(収録している18作品で)、『裁きの家』だけで使われています。
『裁きの家』からの用例が続きますね。
最近作業した作品なので、どうしても目についてしまうのかもしれません。ご諒解くださいませ。
この「むにゃむにゃ」がどうして目についたかと申しますと、自伝小説『草のうた』との共通点があるからです。
もう一つは、言葉というより声であろうか。兄や姉たちが学校に行ってしまうと、私の母は決まって、食卓の傍らに坐って新聞を読んだ。(中略)
三浦綾子『草のうた』[2]
食卓のそばで、小さな声で新聞を読み出す。それはすぐ傍で聞いていても、何を言っているのかわからぬほど低い声だった。母は節をつけて低く読む。五分、十分と、時間が経つにつれ、新聞を読む母の顔をじっと見つめながら、私はひどく孤独になっていった。柱時計の振子の音がいやに大きく聞こえた。母の低い声が家の中の静かさを深めるようであった。
この『草のうた』は、後に大きく加筆されて再連載された珍しい作品ですが、初出は1967年の4月〜1968年の3月、『裁きの家』は1969年10月〜と、比較的近い時期なのです。
『裁きの家』で、クメの人物像を描き出すにあたって、また、優子の孤独をあらわすにあたって、自分の実体験である、母の声というのが大いに役立ったといっても言い過ぎではないでしょう。
クメと優子、関係の微妙な二人だけが残っている日中の家で、その静けさと、息が詰まるような時間の経過をあらわすにはうってつけだったに違いありません。
いわゆる「解像度の高さ」につながりましたね。
べつに、どの家、どの人もが経験するわけではない、綾子さんのお母さん独特の読み方だったのにもかかわらず、作品の読者にしてみれば、いかにもありそうなシーンとして、リアルに感じられる、そういう効果をもたらしました。
そういえば、三浦綾子作品での、漢字の使われ方にも、新聞連載と雑誌連載とで違いがあるのをご存知でしょうか。
例えば、デビュー作であり、朝日新聞で連載された『氷点』では、「言う」という言葉は、
いいながら いい方 いい出す いいます いいきれる いいさす いいようのない いいよどむ いいかねて いいつのる いいたかった いう いえない いえば いえる いおうと いった いわない いわれて いわない いわれれば いわずには
のように、ほとんどがひらがなにしてあります。漢字なのは、
言いたがっている 言い方が 言いたげ 言い分
の、わずかこれだけ(漏れていましたらごめんなさい)。
三浦綾子記念文学館の田中綾館長が館報で述べた、“音読”ということがここで思い浮かびます。
三浦綾子記念文学館 館報「みほんりん」第53号(2024年7月)P.1 巻頭言
現代は本を読む、というと、一人で黙読というスタイルが基本ですが、国文学者前田愛の『近代読者の成立』(現在は岩波現代文庫)によると、江戸時代から明治半ばころまで、書物や新聞を「読む」=音読が基本で、識字者が家族らに読んで聞かせ、数人で楽しむことが多かったそうです。
『氷点』の次に書かれた小説『ひつじが丘』は、「主婦の友」という雑誌での連載で、
言う 言った 言おう 言いかけた 言われた 言わない 言ってた 言い返す 言い放つ 言いようもない 言えない 言わんばかり 言い出す
というように、こちらは逆にほとんどが漢字にしてあり、
〜いえば いわれて見ると 目がふしあなだといわれて 何といわれても弁解のしようもない 不自由でないともいえない 静かな正月とはいえなかった
ひらがなは、わずかこれぐらいです。
朝、出社前に読んで、出かけていった夫。
その後に読む妻、あるいは妻と姑、またあるいは、妻と子どもたち。
妻が、姑や子どもたちのために、読んであげていたとしたらどうでしょう?
面白い新聞小説などは、声に出して読んでいたというのも十分に想像できますね。
だとしたら、漢字の使い方には、しっかりと気を配っていたのかもしれません。
実際、新聞連載が初出の作品は、ひらがなやカタカナが多く使われていて、中年男性向けの雑誌連載の作品は、難しい漢字が多く使われているのです。もちろん、掲載媒体のそれぞれの基準や編集方針などがあって、それらに沿った結果なのかもしれませんが、エッセイ等で三浦綾子さん自身が述べているように、「小学5年生でも分かるように」という気配りは、こういうところにもあらわれているような気がします。
ちなみに、雑誌連載の『塩狩峠』では、興味深いことに、
いいさして いいかける いいたくて いい返す いいようもない いい方 いえない いえば いうな いうのだ いうや否や
言って 言いかけた 言った 言わせずに 言えなかった 言われてみると 言うのだ 言おうと 言います 言いきかせて 言い放つ 言い捨てる 言いそびれる 言いかた
というふうに両方、入り混じるのです。なぜかと思って調べてみると、
文脈や発語者、その文章の視点によって使い分けているということがわかりました。
同じ信夫(主人公)でも、序盤と終盤では使い方が異なるのです。面白いでしょう?
ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』(日本語訳)でも、文章表現に工夫があって、私は衝撃を受けましたが、『塩狩峠』でも、実は細かい工夫がなされているのですね。
さらにもう一つ、一人称視点で書かれた小説『石の森』ではですね、
いいながら いいつづける 〜といい いいづらかった いいたい いいよどんだ いいかけて いいかた いいたくない いう いえば いえはしない いえずに いえない いえる いおうとして いわない いわれれば いわなければ いわずに いわば
というふうに、ほぼすべてがひらがななのです。
ところが、ごくわずか、漢字が使われていました。
それは、作中に登場する詩の中だけだったのです。
これはわたしの想像ですが、一人称視点で描くときの、“言う”という動作は、
“言う”ではなくて、“いう”なのだと。非常に内的な取り扱いにしてあるような印象を受けました。
声に出して言葉を発する。うーん、なんていいましょうか、物理的な動作としての表し方、あるいは、その動作を叙述する文章としてあらわすと、“言う”になり、
一人称の「わたし」が言うのは、心も体も同一の、一つのまとまった存在としての「わたし」が発する何か(思いとか気持ちとか、うめきとか、言葉にならないものも含めて)、を体外に出すという行為、あるいはその何かを届けたり、ぶつけたりする行為、そんなふうに受け止めました。
実際、ごくごく簡単な、動作としての“言う”の言い換えとして、「返事をして」などが使われているのをみると、あながち大きく間違ってはいないような気がします。
作家というのは、大変な工夫をしているものなのですね。頭が下がります。
文芸作品というのは、パズルのように、「そこに置くしかない、ほかの場所では考えられない」という表現の連続で組み上がっている、“必然の妙”なのだとあらためて思います。
では、また。
難波真実
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