印象に残ったオノマトペ語句の9語目です。
馬橇がリンリン鈴を鳴らしながら、いく台も通る。
三浦綾子『塩狩峠』[雪の街角]
この語句は、今のところ(収録している18作品で)、『塩狩峠』だけで使われています。
ただ、作業はずいぶん先のことになりますが、『母』でも使われています。セキさん(小林多喜二の母)の嫁入りの場面ですね。同じく馬橇の鈴の音です。
『塩狩峠』のこの場面は、信夫(主人公)が大きなターニングポイントを迎えるところですね。伊木(いき)という伝道師(キリスト教の教えを広める人)が路傍で叫んでいるところに出くわす、その街角の情景を描いている表現の一つです。
信夫は、職場の同僚の三堀(みほり)の家を訪れた、その帰り道です。詳しくは書きませんが、信夫は残念な思いを胸に歩いていたことでしょう。信夫なりに勇気を出して、まあ、お節介なことではあるのですが、信夫の性格からして放っておけなかったのでしょう、その善意の行動が空振りに終わった、そういう帰り道です。なんともいえない無力感で胸がいっぱいになっていただろうと思います。
この「リンリン」のすぐ直前に、もう一つ別のオノマトペが使われています。「キュッキュッ」という、雪の道を歩く音です。この音を響かせながら駅前通りに出て、暮れの人混みにぶつかるわけですが、その行き交う人々に混じって、馬橇が鈴を鳴らしながら走っている、そういう風景ですね。
このあたりが映像的だなあと感じます。
信夫の心はふさがっている、しかし周囲は賑やか。
街の喧騒の中を歩く信夫に、その賑やかさはどこまで聞こえているのか。
感情や考え事で心がいっぱいになっている信夫と、街角の明るさが対比されていて、ぱっと映像が頭に浮かびますね。
「キュッキュッ」も「リンリン」も、おそらく信夫には雑音(ノイズ)の一つとしてしか聞こえていない、そのとき、伊木伝道師の叫ぶ声が耳に入る。当初はただの叫び声でしかなかったものが、「ふと」耳に入った言葉によって、急に信夫の神経を呼び覚ますんですね。
私が不思議に思うのは、「キュッキュッ」も「リンリン」も、小説作品としては、文字になって書き表されているのに、雑音(ノイズ)でしかない。一方、伊木伝道師の叫ぶ声は「言葉」として信夫に届いた、という違いです。
小説作品の面白さは、こういうところにあるのでしょうね。
これを映像で見せようとすると、「キュッキュッ」も「リンリン」も本来の「音」として組み込まれてしまう。聞こえてくる音なのです。文字通り、街角の風景に過ぎない。そこに伝道師の声がかぶさってくる。初めは聞こえにくいけれども、徐々に、何を言っているのかが明瞭になってくる。そして信夫が立ち止まる。さらに近寄り、聞き取ろうとする。そういう画ですね。
でも、小説は音が文字になっている。文字を拾っていくことで、読者の頭の中で世界が展開されていく。そして心を揺り動かす。面白いですよねえ。
同じ文字なのに、言葉になったり、音になったり。
オノマトペの果たす役割って、本当に幅広くて意義深いなあと感心します。
では、また。
難波真実
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