印象に残ったオノマトペ語句の23語目です。
「ニャアゴオッ、ニャアゴオッ」
三浦綾子『足』
この語句は、今のところ(収録している18作品で)、『足』『道ありき』の2作品で使われています。
まさにこれは擬音語ですね。猫の鳴き声です。
『足』は初期の短編現代小説です。
札幌の療養所(厳密には、札幌の街に近い山の中腹)を舞台に、元教員の三津枝と、同部屋の少女霧子のやりとりを描く物語。
猫の鳴き声を真似ているのは霧子です。同じ療養所に入院している森川という男に会いたくなったときに出す声なのです。
森川は教員で、三津枝の元同僚です。
霧子はまだ11歳。会う会わないの話をするような年齢ではありません。
この物語を読み始めるとすぐに、なんだか淫靡な空気が流れていることを感じます。
三津枝が精一杯、それを押し留めていることも伝わってきます。
この小説の発表は「オール讀物」でして、読者は「ん?」と思ったのではないでしょうか。
男性であれば、「我々を糾弾しようとしているのか」ぐらいに感じる人もいるかもしれません。
下手をすると、「だから女性作家は嫌なんだ。すぐに男を悪者にして」と嫌悪感を抱く人もいたでしょうね。
ところが、読んでいくうちに、それはあっさりと裏切られるのです。
自伝小説『道ありき』を読んだことのある人なら、三津枝が三浦綾子さん(旧姓は堀田)なのだろうと推測できるわけですが、元教員で、熱心な先生であった彼女が、霧子を我が子のように可愛がり、育てようとするところも、だからこそ霧子の言動に我慢ならなくなっていく過程も、共感できるかと思います。そして三津枝の怒りの矛先が森川に向かっていくとき、特に男性の読者は自分が責められているかのような錯覚を持つことも想像に難くありません。
エンディングにたどりつくと、あまりにもあっけなく、どんでん返しを食らってしまう。
「いったい、なんだったのだ?」と呆然とすることでしょう。
そして、この物語は、誰かを非難したり、何かを訴えたりしたいというものなのではなくて、
霧子の、三津枝の、森川の、あるいは霧子の実の母親の、それぞれの哀しみが吐露されていたのだということに気づくわけです。
『井戸』と『足』はどちらも「オール讀物」での発表で、初期のものです。
どちらも、三浦綾子さんの青年時代を背景にしているという共通点があります。
療養所というのは、結核の療養所のことで、綾子さん自身も肺結核を病んで、療養所生活をしていた時期がありました。
『井戸』は、教師時代の回想を交えながら、結核が治ってからのことを、『足』は療養期の最中のことを描いたわけですね。
どちらも、実体験が盛り込まれていますから、非常にリアルで解像度の高さが見て取れます。
特に、エッセイ集『愛すること信ずること』[心の隙を埋めるものは]で、『井戸』を書いた背景が語られていますので、ぜひお読みになってみてください。
この作品、ミニシアター系の短編映画になりそうだと思うのですが、どうでしょうか。
『井戸』も『足』も、映像化されていないようなので、原作物を映像化したい方がいらしゃったら、ぜひ候補に加えてくださればと思います。
「ニャアゴオッ、ニャアゴオッ」と、女の子が殺風景な病室で叫ぶところから始まる物語は、映画にぴったりだと思います。
医療系のテレビドラマは数あれど、病室の画は、映画とテレビドラマでまったく違うように見えます。
どちらも、病室なんですけどね。でも、違うんですよね。
画面の縦横比だったり、ピントの合わせ方だったり、照明の明るさだったり、そもそも両者の造りが異なるんでしょうけれど、こんなにも違うものなのかと、驚くことが多いです。
『井戸』は、断然、映画で撮ってほしい作品です。
今日は道東や十勝で大雪でした。お住まいの皆さんの安全を願っています。
では、また。
難波真実
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