2022(令和4)三浦綾子生誕100周年を記念して作成された4曲編成の合唱組曲
「信仰、希望、愛 三浦綾子への頌歌」(記念文学館WEBショップ)
について、やっっっと書かせていただこうと思います!!
2022年の10月30日に行われた「あたたかき日光コンサート」
その中で、わたしが所属している旭川の一般合唱団「ヴォーカルアンサンブル『Birds of a feather』」(通称:バーズ)で初演をさせていただいたこの組曲について、
・表現の参考にさせていただいた、作曲者・作詞者の先生方のお話
・初演にまつわるエピソード
等々を、数回に分けてご紹介したいと思います!
三浦綾子ファンはもちろん、これから演奏する予定の方のご参考になればと思います。
なお、内容としては音楽的な話よりも、詞や詞にこめられた三浦綾子の思想や生き様の考察のほうに重点を置いていくかたちとなりますので、ご承知おきください。
(このシリーズで投稿することと歌詞の掲載にあたっては作詞者さまからご快諾いただきましたが、同時に「楽しみにしています!」と言われ、ハードルが上がりきっています笑)
組曲は全4曲で構成されており、順番は
ⅱ 時代を見つめる
ⅲ 命の讃歌
ⅳ いいこと ありますように
となっていますが、一番はじめに完成して単曲で初演をしたのはⅳ「いいこと ありますように」なので、そこからしたためていこうと思います。
初演のいきさつ・背景
記念文学館 事務局長の難波さんから「三浦綾子にまつわる合唱曲をつくりたい!」というお話を旭川市合唱連盟の理事長が受け、そのつながりで、なんと合唱作曲家の松下耕先生が作曲を引き受けてくださることになりました。
(この経緯については組曲の楽譜にも載っています。ぜひお買い求めください!)
三浦綾子にはそのまま歌詞として引用できる文章がなかったため、三浦綾子を知り尽くした難波さんが新たに詞を書いてくださいました。
また、耕先生は作曲にあたって、難波さんの案内で、三浦綾子ゆかりの地である歌志内や上富良野、美瑛などを回られ、作曲にあたってイメージをふくらませていったとのことです。
そうして「いいこと ありますように」が完成しました。
完成した曲は、旭川合唱連盟創立70周年記念である2020年に、耕先生を指揮者としてお招きして、旭川の合唱人約50人で構成された特設合唱団によって初演が行われる予定でした。
しかし…
日本においては2020年頭から、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まってしまいました。
そして合唱は、コロナ禍で避けるべきとされた三密(①換気の悪い密閉空間 ②多数が集まる密集場所 ③間近で声を出す密接場面)のすべてに合致してしまい、活動の全面的な縮小を余儀なくされてしまいます。
未知の感染症がもたらす恐怖に、弊団を含む多くの合唱団が活動自粛に追いやられ、やむなく「いいことありますように」の初演も延期されることとなりました…。
手探りの中で合唱活動が少しずつ再開されていき、この曲が日の目を見たのは2021年11月のことでした。
感染防止のため一般の聴衆は会場にいれず、合唱連盟の会員に向けた「合唱講習会」というかたちをとり、ステージ上で耕先生にご指導いただいたり、曲に込めた三浦夫妻の祈りについて難波さんからご説明をいただいたりしながら、曲を完成させていきました。
翌年の「あたたかき日光コンサート」においても、単曲初演のときと同様に、難波さんと耕先生にはご多忙の中バーズの練習にお越しいただいて、ご指導いただきました。
この場を借りてあらためてお礼申し上げます! ありがとうございました。
三浦夫妻の信仰生活
まずは「いいこと ありますように」の歌詞を見てみましょう。
「あたたかき日光コンサート」での組曲初演の動画も貼っておきますので、あわせてご参照くださると幸いです*
いいこと ありますように
(作詞:難波 真実/作曲:松下 耕)
Our Father in heaven,
hallowed be your name,
your kingdom come,
your will be done,
on earth as in heaven.
あなたの歩みが希望にあふれ
信じ支え合う未来でありますように
あなたの歩みが喜びに満ち
守り慈しむ未来でありますように
あなたの歩みがもし険しくとも
ゆるし生かす心が保たれますように
あなたの歩みが涙にくれても
温かな手と愛に包まれますように
あなたの歩みのすべてにおいて
恵み降り注ぎ いいこと たくさん
あなたに ありますように
Pater noster, qui es in caelis:
sanctificetur nomen tuum.
Amen.
三浦夫妻の生前、人生におけるさまざまな悩みを抱えていた方々が、夫妻に相談を持ちかけてくることがたくさんあったそうです。
電話や手紙だけではなく、時にはわざわざ遠くから旭川へ赴いてくる方もいたとか。
そして夫妻は、頼ってきた人たちを忙しい中でも決して無下にすることなく、1人1人の話を真剣に聞き、寄り添い、励ましていたとのこと。
寒空の下、夫妻の家の前にたたずんでいた相談者を見て、裸足で駆けていって抱きかかえ、家に招き入れたというエピソードもあるほどです。
中には、自分の命を投げだそうと思うぐらい追い詰められていた方もいたそうですが、献身的な夫妻に励まされ、生きる気力をもらって帰っていったという話もあります。
また、執筆活動の前後には必ず夫婦でお祈りをしていたそうですが、光世さんが個人の名前をあげてかなり細かく祈っていたそうです。(なんなら綾子さんが少し「長いなあ」と思うぐらいに笑)
単曲初演の練習の中で、難波さんから三浦夫妻の生活をうかがい、月並みの感想ですが「他人のためにそこまでできるなんてすごいなあ…」と、感心した記憶があります。
人は誰しも、自分が生きていくので精一杯です。
百歩譲って「大切な人のためなら・・・」と行動することはできるでしょう。
でも、見ず知らずの人の話でも時間をかけて真剣に聞き、共に悩み、励ますことができるなんてすごいなあ・・・どうしてだろう・・・? と。
当時は、まだ組曲の初演のお話はいただいておらず、わたしの中でも三浦綾子は「中高生のときに何作か読んだな~」程度の意識しかありませんでした。
しかも、三浦綾子は「単なる有名な小説家」としか思っていなかったので「小説家に人生相談するのって、わりとあることなんだろうか?」と、すっとぼけたことを考えていました。
その翌年、組曲初演にあたって文学館をたずね、三浦綾子の生き様に感銘を受けて、当の難波さんと一緒に推し活を始めちゃうまでのめりこむことになるなんて知らぬまま・・・笑
「祈り」がもつ意味
そもそも何を「祈る」のか?
さて、この曲は全編通して「祈り」のことばがつづられていますが、まずはキリスト教における「祈り」について触れてみます。
わたしは、コンサートを終えたあとも三浦綾子熱が冷めることはなく、個人的に聖書を読んだり、教会でキリスト教のことを教わったり、クリスチャンの方と交流したりしているのですが、学び始めて驚いたことのひとつに「お祈り」があります。
何かを食べる前、朝起きたときや寝る前。
それらの節目に限らず、何かを始める前に「うまくいきますように」と祈って、無事に終われば「ありがとうございました」と祈る。
・・・などなどなど、事あるごとにお祈りをします。
わたしもそうでしたが、宗教観があまり確立されていない日本人にとっては、「神さまにお祈りする」という行為自体がさほど定着していないので(初詣などで神社に行ったときとか、家の神棚や仏壇に手をあわせるぐらいでしょうか)、まずは単純に「キリスト教ってたくさんお祈りするんだなあ」と驚きました。
また、お祈りの内容についても、それまで持っていたイメージとのギャップを感じました。
それまでは「お祈り」といえば「〇〇がうまくいきますように」「〇〇になりますように」という、いわゆる願望を指すものしかないと思っていました。
あとは、クリスチャンの祈りといえば懺悔のイメージもありました。
「おお神よ、わたしは××をしてしまった罪深い人間です・・・こんなわたしをお許しください」というものですね。
しかし、クリスチャンにとって「お祈り」とは「お祈りを通して神さまとお話すること」だそうで、上述の願望や懺悔ももちろん含みますが、「〇〇ができるのは/できたのは神さまのおかげです、ありがとうございます」という感謝を伝えたりもします。
新約聖書「テサロニケ人への手紙 第一」第5章16~18節(以下すべて、引用部分は新改訳版2017)には、次のようにあります。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事において感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
それまでのわたしは、多くの自己啓発本に書かれている「あらゆることに感謝しましょう」ということを実践しようと思っても、難しさを感じていました。
「誰々に○○してもらえた! ありがたいなあ」と、感謝の対象が明確にわかる場合はよいのですが、わからない・わかりにくい場合は誰に感謝したらいいのだろう? と・・・。
健康な体でいられること。
着るものがあり、食べるものがあり、雨風や寒さをしのげる家の中で、身の危険を感じることなく安心して過ごせること。
あらゆる通信手段を使って、いつでも誰かと連絡がとれること。
目の前のコップ、手の中のスマホ、身の回りにあるすべてのものが、何1つとっても、自分の手で生み出したものではありません。
「そんなの当たり前だよ。いちいちオオゲサじゃないか?」と思われるかもしれませんが、世の中に「自分の力ではできないこと」があまりにも多いことに改めて気づくと、「めちゃくちゃありがたいじゃん!! 一体これは誰に感謝すればいいの・・・?」という気持ちになったのです。
わたしはこのように、誰に感謝すべきかわからず大きな穴があいていたところに、すっぽり神さまがあてはまったような感覚をおぼえました。
そして、キリスト教のお祈りを知って、「な~んだ! こんな簡単な方法で&場所も選ばず神さまに感謝を伝える方法があるのか!」と、今では事あるごとにお祈りをしています。
「主の祈り」
また、クリスチャンの「祈り」といえば、「主の祈り」を避けて通ることはできません。
実際に、「いいことありますように」の冒頭にはプロテスタント教会合同の現代語訳(英語)から、最後にはラテン語の「主の祈り」から、それぞれ冒頭の一部分が引用されています。
*なおこれらは、ご自身もクリスチャンである耕先生によって、三浦綾子の信仰生活に最大の共感と畏敬の念をもって付け加えられたそうです。
「主の祈り」とは、弟子たちから「何について」「どのように」祈ればいいかをたずねられたイエス・キリストが、問いに答えるかたちで伝えたものです。
(*新訳聖書「マタイの福音書」6章と「ルカの福音書」11章にそれぞれ該当箇所とおぼしき内容が載っていますが、コンサート当日のパンフレットには歌詞とともにマタイのほうが掲載されていたため、そちらを引用してご紹介します)
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」[国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン]
「主の祈り」について、三浦綾子はエッセイ『天の梯子』にて「短いながらも、人類に必要な何もかもが内包された完璧な祈りである」と述べています。
ごくごく簡単に解説すると、
「わたしたちの父」→ 神さまは特定の誰かだけを救うのではなく、信じる者は全人類もれなく救ってくださること のあらわれ
「御名が~」→ 神さまを信じる者にとって外せない祈りです。この世で1人でも多くの人が、あらゆる事象が神さまのおかげであること&救ってくださるのは神さまただお一人であることを認識し、神さまを讃えますように! という祈りです。
「御国」→ いわゆる「天国」で、イエス・キリストを信じる者が死んだあとに行くとされている神さまの国です。そこでは、神さまのみこころがあまねく及んでおり、争い・貧富・差別などのあらゆるトラブルから解放されて、心穏やかに暮らせるそうです。祈りの中では「そのみこころが天だけでなく地でも行われるように」と続いています。
「糧」→ 食べ物(食糧)を思い浮かべますが、「衣食住」すべてを指し、さらに、その恩恵を最大限受けることができる心身ともに健やかな身体をも指すと三浦綾子は述べています。大多数の人のもつ願望が、ここに集約されるのではないでしょうか。
「私たちの負い目を~」→ 個人的に、初めて聞いたとき「神さまの力はわたしたちの心にまで及ぶのか!」と驚いた箇所です。罪深いわたしたちを神さまが赦してくださったように、わたしたちも周りの人を赦すことができれば、争いは避けられることでしょう(とても難しいことですが・・・それでも実践できるようにとお祈りするのですね)
「アーメン」→ 「本当に」「まことに」砕けて言うと「ほんまそれな」
そしてこれは、教会での礼拝で毎回唱えられています。
つまり、この「主の祈り」が伝えられてから、今日に至るまでの約二千年もの間、「主の祈り」が地球上でなされなかった日はなかったのではないかと『天の梯子』で三浦綾子が述べています。
人類史上、長い年月をかけて、たくさんの人によって絶えることなく紡がれてきた祈り。
そこで気づいたのが、耕先生が練習の中で
「ロングブレスは祈りの境地をあらわすつもりで!」
とおっしゃったことです。
実は、これは別の曲の練習中におっしゃったことなのですが(別途その記事でも触れる予定です)、「いいことありますように」にも長い音を求められる箇所が複数あるのです。
わたしはアルトパートなのでとても印象に残っているのですが、アルト以外の全パートが2拍以上休んでいるときに、細~く絞ったp(ピアノ=弱い音)で、アルトだけが歌っているという箇所が2か所あります。(おわかりいただけたでしょうか?)
「そもそもアカペラ(無伴奏曲)なので、全パートが音を出していない時間はあまりないからではないか?」と思いつつも、細く長く紡がれてきた祈りがそこに表現されているような気がしています。(あくまで憶測ですが。。。)
「祈り」の形式
また、完璧な祈りとされる「主の祈り」以外にも、クリスチャンがその場その時に応じて内容をカスタマイズして(対話ですからね)お祈りをするのですが、おおまかな形式があります。
まず 神さまへ呼びかける
「天におわしますわたしたちの神さま(お父様、父なる神さま)」など。
次に 具体的に述べる
上記のとおり「○○ができるのはすべて神さまのおかげです」と感謝したり、気がかりなことがあれば「●●となりますようにお取りはからいください」、何かにチャレンジしたいときは、わたしは「△△ができますように御力と知恵をお授けください」とお願いしたりします。また、三浦夫妻のように「誰々が◎◎できますように」と、他人についてお祈りすることもあります。
そして意外だったのは、自分ではどうしようもできなさそうな自分の心の動きについてもお祈りすることが多いということです。
たとえば、どうしても許せない相手がいたら、「神さまのみこころに沿えず、□□を憎んでしまいました。どうか□□を許す心をお与えください」など懺悔とともに祈る。
あるいは、今苦しんでいることがあれば「この苦しみもいつかプラスに思えますように」とか、悩みや苦しみ、怒りを祈りに乗せて神さまに委ねることもあります。それでも委ねきれなくて、気づいたらグッと手に握りしめてしまっていることも、わたしは多々ありますが・・・。
最後に 「主イエス・キリストの尊い御名を通してお祈りいたします、アーメン」と締める
「名前を通してお祈りする」とはイメージがつきにくいと思うのですが、たとえば新約聖書「ヨハネの福音書」第16章23節にて、イエス・キリストご自身が「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます」とおっしゃっています。
これは、(法律で裁かれる犯罪とまではいかずとも)嘘・悪口・ねたみなどの罪に汚れている人間が神さまとつながれるようになるためにイエス・キリストが十字架の上で命をささげられた、このことを認めて感謝しつつ、神さまのみこころに従ってお祈りします
というような意味合いだと捉えています。
また、「何でも」とありますが、たとえば「憎いアイツが失敗しますように!」みたいな祈り(もはや呪い)は神さまのみこころが何なのかをよく知らない人でも、「イヤみこころに沿っていないでしょ汗」と直感的にわかるかと思います。
このことから、「尊い御名を通して~」とお祈りを締めることで、具体的に述べるパートのお祈りは神さまに捧げるのに本当にふさわしいものなのか毎回気が引き締まりますし、あれもこれもとお願いしたくなることが、自然とそぎ落とされていく感覚になります。
(ちなみに、わたしはいつも頭に「すべて感謝して、」とつけます)
具体的にどんな言葉で祈ればいいのか? については、わたしは他の人のお祈りを聞いて「はあ~なるほど、こういう言い方もあるのかぁ」とボキャブラリーを増やしているところです。
歌詞の構造
歌詞を、上述の祈りの形式に当てはめてみます。
冒頭、まず「Our Father in heaven,」と、視線は神さまを見上げています。
次に「hallowed be your name,(御名があがめられますように)」と続き、決して「お願いだけ一方的に聞いてほしいッス! あとはよろしくッス!」という傲慢な祈りではなく、「すべては神さまのおかげです」という感謝が根底にあることが示されています。
f(フォルテ=強い音)だった英語パートから一転して、p中心に静謐な雰囲気で歌い上げられる日本語パートは、すべて「あなた」主体であり、視線は自分と同じ高さに下げられ、周りを広く見渡し、自分以外の誰かの幸せを切に願う内容となっています。
ですが、「わたしがなんとかしてあげるからね!!!」といったものではなく、「神さまはいつもあなたを見守っていますからね」という、優しい神さまの存在を暗に示して寄り添っています。
そして曲の後半になって、満を持して「いいこと ありますように」と、タイトルにもなっているフレーズが現れ、その直後から盛り上がり、他でもないあなたに・いいことがたくさんありますように、と高らかに歌い上げ、クライマックスを迎えます。
そして、上述のアルトのロングブレスからつながって、最後はまた静かにラテン語のパートに移ります。
このラテン語は、「主の祈り」から「天にいますわたしたちの父よ。御名があがめられますように。」の部分を訳したものです。
つまり、視線はふたたび天の神さまをあおぎ見ていることになります。
そして、曲の最後は「アーメン」で締めくくられています。
(演奏法の注:一番最後の小節、フェルマータつきの全音符は「ン~」とハミングで歌うよう指示がありました。「アーメーンッ」とンを最後にだけ短く歌わないように! 動画を参照してください)
・・・こうして見ると、歌詞の構造がキリスト教における祈りの形式をなしている=曲自体が1つの祈りであるようにわたしには感じられましたが、いかがでしょうか。
そう、まるで神さまの慈愛と恵みに満ちあふれた、他人にそっと優しく寄り添う祈りのように・・・。
世間の荒波へ立ち向かう人々へのエール
難波さんにバーズでご指導いただいた際に、「この曲は祝祷なんです」と言われたのも、とても印象に残っています。
毎週日曜日には、どこの教会でも信者さんが集まって礼拝をもちます。
その中で神さまのみことばに触れたり、讃美歌を歌ったりして、最後に牧師さんから捧げられるお祈り、それが祝祷だそうです。
教会を離れると、信者さんたちはそれぞれの生活に戻っていきます。
楽しいことだけではなく、出口の見えない苦境に立たされている方も大勢いるだろうということで、「神さまがいつも一緒にいらして見守ってくださいますよ。元気を出して!」という励ましを込めて祝祷がなされるそうです。
個人的な話ですが、この曲の練習が始まった2021年の夏~秋頃に、お仕事でもプライベートでもとても仲良くさせてもらっていた友人が、心が疲れてしまって、休職してしまったという知らせを受けました。
元気だった姿からは信じられず、大変ショックを受けました。
さらに、そのとき友人とは離れた場所に住んでおり、お休みのことは本人からではなく人づてに聞いたということもあって、本当に薄情な話ですが、励ますどころか連絡もできずにいました。
友人の状況は何もわからず、手助けできない。
落ち込んでいる友人に、なんと声をかけたらよいかわからない。
コロナで制限された生活も、いつ終わるのかわからない。
そのような先行きが見えない不安の中で「いいこと ありますように」の練習が始まりました。
そして、友人に声すらかけることができない自分の無力さを突きつけられて、そんな自分でもできることはただ1つ・・・祈ることしかないのだと痛感しました。
当時はまだ、上述したようなキリスト教うんぬんについてはまったく理解していなかったのですが、それでもこの曲の歌詞、とりわけ「いいこと たくさん あなたに ありますように」というシンプルなフレーズに深く共感しました。
そして、単曲初演・組曲初演どちらにおいても、友人への「いいこと ありますように」という祈りの気持ちを込めて歌わせていただきました。
その友人とは、組曲初演から約1年後に再会することができました。
そのときには友人もかなり元気を取り戻しており、近くに移ってきていたため、それからは頻繁に会って、ごはんを食べたり、一緒にさまざまなことを楽しんだりしています!
友人が一緒に遊べるくらい元気になってくれて本当にほっとしていますが、やはりわたしが友人にしてあげられることはかなり限られているなあ・・・という思いはぬぐえません。
なので、さらに「いいことがたくさんありますように」と神さまにお祈りしつづけています。
神さまに祈った結果、友人が近くに越してきて、再会でき、こうして一緒に過ごす機会が与えられたのだという感謝と、これからも自分にできることがあれば神さまのみこころに沿わせてくださいという願いをこめて…
・・・個人的な話をしてしまいましたが、世の中を見渡してみると、苦しんでいる人たちがまだまだたくさんいます。
そして、その苦しんでいるのがたとえ自分の知っている人でも、知らない人でも、残念ながら自分にはその苦しみを直接解決してあげたり、心身を癒したりする力はないのだということを痛感するでしょう。
そして、「いいこと ありますように」という祈りは、シンプルなフレーズながら、世にあふれるあらゆる苦しみに遭っている人に寄り添ってあげられるものなのだと思います。
耕先生はこの曲の指導の際に「何もしようとしなくていい、ただただ神さまに委ねる気持ちで歌ってください」とおっしゃいました。
なので、自分には他人の苦しみを取り払ってあげることはできなくても、祈って神さまに委ねることだけはできる
という心境で歌わせていただいています。
上述しましたが、人はやはり誰しもが自分のことで必死なので、
「お金がたくさん手に入りますように!」とか
「ずっとずっと健康でいられますように!!」とか
「とにかく今抱えている悩みがなくなりますように!!!」とか
「すごいカツヤクをして、みんなからほめられますように!!!」とか
自分のことについては、願い事が湧き出てキリがないと思います。
自分さえよければ! というところから一歩ふみだして、知っていても知らなくても、他の誰かの幸せを心から祈る。
そしてもし、他の誰かが自分の幸せを真剣に願ってくれているのだと知ったら、それだけで励みになりますし、幸せになれます。
ここに気づいた瞬間、それが、三浦夫妻が貴重な時間=命を削って悩んでいる人たち一人一人に真剣に向き合った理由なのだと確信しました。
それこそが、三浦夫妻が生涯を通してわたしたちに示してくれた愛なのだ、ということを。
ひかりと愛といのち
愛といえば、そう!!
三浦綾子はひかりと愛といのちの作家。
さらに、作詞されたのが難波さんということで、難波さんが『愛は忍ぶ 三浦綾子物語 挫折が拓いた人生』にて提唱しておられる「ひかりと愛といのちとぬくもり」
これらの要素も、組曲には多分に含まれていると考えられます。
以下、この曲の中でわたしが勝手にあてはめたこれらの要素をご紹介します。
ひかり
「あなたの歩みが希望にあふれ」
人生における希望は、道を照らす光になります。
愛
「温かな手と愛に包まれますように」
上述したように、自分のことに終始するのではなく、他の誰かの幸せを祈る隣人愛
あとは、(また別の曲で詳しくご紹介しようと思いますが)人間を救うために命を捧げられたイエス・キリストと、そのために彼を遣わした神さまの愛
いのち
「あなたの歩み」
歩むこと=生きること
寿命が尽きるその日まで歩み続けたいし、他の人にも歩み続けてほしいという切なる願い
ぬくもり
「温かな手と愛に包まれますように」
誰かが自分の幸せを祈ってくれるぬくもり
そしてその祈りは神さまが聞き届けてくださって、ずっとそばで見守ってくださっているのだというぬくもり
三浦綾子のテーマ「ひかりと愛といのちとぬくもり」には、次回以降もどんどん触れていく予定です!!
終わりに
私見や独自解釈ばかりでしたが、この曲の良さをわたしなりにまとめてみました!
わたしがあれこれ言及しなくても、詞も曲もすばらしい作品なので…合唱をされている方にはぜひ組曲に挑戦していただきたいですし、それをきっかけに三浦綾子を知っていただけたらとてもうれしいです!
こぼれ話ですが、曲の後半になって初めて「いいこと ありますように」とタイトルのフレーズが出てくるのですが、アルト(とベース)で歌わせてもらうのがおいしすぎて。。。笑
2023(令和5)の10月14日に記念文学館で行われた「第1回 合唱の日コンサート」のアンコールでもこの曲を披露させていただいたのですが、正面ホールの仲睦まじい三浦夫妻のパネルの前で、いわば聖地で歌わせていただいたのですけども、この「いいこと ありますように」と歌った瞬間、三浦夫妻の優しい祈りを全身に浴びた気がして、バーーーーッと涙があふれ出てきてしまいました(;ω;)
まさに、心が洗われた気持ちでした。
機会があればぜひ、この曲を歌って、その気持ちを味わっていただきたいです。
さて、次回は「ⅰ 春を待つ」について書かせていただこうと思っています*
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♩
ゑむゑむ@バーズ
コメント
ゑむゑむ@バーズさん、こんな素敵な記事を書いてくださって、感謝感激です。
永久保存版ですね。そして、たくさんの人に読んでもらいたい。
すごいです、ほんとに。感激しました。
ありがとうございます!!!
2025.2.4 難波真実
難波さん
作詞者さまにそう言っていただけるとは…!
こちらこそ、素敵な機会を与えてくださって本当にありがとうございます(*´ ω `*)
他の曲も頑張って書きます!