“読む”? “話す”? “語る”? “伝える”? “届ける”? “贈る”?

難波真実

久しぶりの投稿になってしまいました。
こんにちは、難波真実です。
勤務先である三浦綾子記念文学館は12月28日から年末年始休館(1月7日に開館します)で、私は自宅で片付けやら私的な仕事やらをしております(ストーブでは豚肉と玉ねぎをコトコト煮込んでます)。

私的な仕事の1つが、三浦綾子作品の読み聞かせ用文集の作成でして。
「なぜに読み聞かせ」?と思われることでしょう。
というのは、「朗読」だと結構「小難しい」と思われがちなのです。
12月1日に発行した「サチコの恋」では、さらに踏み込んで「演読(えんどく)」なんていう語句を使いましたが、それはもう「何じゃそれ?」てなことになるわけで、到底、手にとっていただけません。
ですので、もう少し暮らしの中で身近な「読み聞かせ」という語句を使うことにしました。
いや、といっても、朗読してくださっていいんですけどね。

私は元々保育士でして(今もそのつもりでおりますが)、絵本や童話の読み聞かせが大好きで、よく読んだのが、
「三びきのやぎのがらがらどん」「3びきのくま」「えるまーのぼうけん」(3部作)「いやいやえん」「かえるのエルタ」「ももいろのきりん」「てぶくろ」「だいくとおにろく」「じごくのそうべえ」「おおきなきがほしい」「ぎょうざつくったの」「バムとケロ」「せんたくかあちゃん」「おおきなかぶ」「ブレーメンのおんがくたい」「ふるやのもり」「10までかぞえられるこやぎ」「なまけねずみのウォルター」「おしゃべりなたまごやき」「長ぐつをはいたねこ」「ねむりひめ」「おしいれのぼうけん」「ぐるんぱのようちえん」「かさじぞう」「ぐりとぐら」(シリーズ)「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」「きかんしゃやえもん」「ちいさいきかんしゃ」「ゆうちゃんのみきさーしゃ」「ふしぎなふしぎなながぐつ」「ちびくろ・さんぼ」「だるまちゃんとてんぐちゃん」「ないたあかおに」「ふうことどんどやき」「おおかみと七ひきのこやぎ」「きつね森の山男」「やまなしもぎ」「さる・るるる」「やこうれっしゃ」「とこちゃんはどこ」「はじめてのおきゃくさん」「ぶたぶたくんのおかいもの」「11ぴきのねこ」(シリーズ)「そらいろのたね」「スイミー」「さむがりやのサンタ」「サンタおじさんのいねむり」「子うさぎましろのお話」「おばけのバーバパパ」「ヘンゼルとグレーテル」「大きな森の小さな家」(シリーズ)「ドリトル先生物語」(シリーズ)「スーホの白い馬」「王さまと九人のきょうだい」「きいろいのはちょうちょ」「こうのとりになった王さま」「わにわにのおふろ」(シリーズ)「らいおんみどりの日ようび」「ゴムあたまポンたろう「きたかぜのくれたテーブルかけ」「くまの子ウーフ」(シリーズ)「ふしぎなかぎばあさん」(シリーズ)「トム・ソーヤのぼうけん」(シリーズ)「ながいながいぺんぎんのはなし」
という感じですね。
もちろん、ほかにも名作はたくさんあるのですが、私が好きで、繰り返し読んだ(&読み聞かせた)のが前述の作品たちです。

そんなにたくさんタイトルを挙げる必要があったのか? と思われるでしょうね。
わたしも、一瞬、そう思いかけたのですが、
いやいやいやいや、共通点を見つけました!
とはいっても、作品同士の共通点ではありません。

「好き」

という共通点です。

なんだ、そんなことか? と思われるでしょうね。
いやいやいやいや、そうでもないのですよ。
「好きこそものの上手なれ」という言葉もあるように、
「好き」というのは、実に重要な要素なのです。

ということは……、

そうなんです。
三浦綾子作品もそうなんです。
どれも名作なのですが、個人的な好みというのはどうしてもあるので、
「好き」というのは大きいのですよね。

ここ数年、朗読や朗読劇の活動に携わらせていただいていて、
そのために、幅広く様々な朗読を聴くようにしているのですが、そこで感じるのが、
「言葉が届く」朗読と、そうでない朗読があるということでした。
当初、これは技術的な(経験値も含めての)違いなのか? と思っていたのですが、
(それもあるでしょうが)
この頃は、そうではないなと思っていまして。

どうやら、
「言葉が自分のものになっているかどうか」
だなと。
朗読活動(あるいは演劇)をされている方にとっては、当たり前のことなのかもしれませんが、
私はようやくここに行き着いたわけです。
これは衝撃でした。

ややこしい話をして恐縮ですが、
私は牧師なのです(特定の教会を担任しているわけではありませんが)。
キリスト教会(特にプロテスタント教会)では、礼拝で説教(いわゆる、聖書のお話)をするのですが、さきほどの「言葉が自分のものになっているかどうか」が、直結するのですよ。
神学校時代に先生方や先輩方がよく、「生活が問われるよ」とおっしゃっていたのが、今頃になって実感できるようになったんですよね。学生時代には、倫理的なことを言われているのだろうと思っていたのです。「牧師(伝道者)らしく」ということだと思ったのです。
そうじゃないのですね。
講壇でお話させていただく以上、「その言葉が生きて」いないとダメなわけです。怖っ。
「今頃かい!」とツッコまれるのは仕方がないとして、
でもね、でもね、でもね、
それでもですね(しつこい)、

「聖書の言葉が生きて」いるとは、どういうことなのか?

ここなのです、大事なのは。
「生き方として」生きているのは、もちろんのこと、
私が今、問うているのは、
「聖書のテキストが生きている」とは、どういうことか、です。

これはですね、
朗読に携わるようになって、ようやくたどり着いた地点ですね。

朗読する際に私が意識するのは、映像でいうところの、
画角(アングル)とカット割りです。
それによって、発音も発声もイントネーションも違ってくるのですが、
聖書を読む時に、それが意識されているかどうか、そこですね。
もちろん、映像を意識して読むことだけがすべてではないですが、
聖書テキストの掘り下げを、いろんな角度から丹念にしているかどうか、
そのテキストが自分のものになっているかどうか、
そこが問われているなと感じたわけです。
もっと言えば、その言葉に生きているかどうか。

と思いながら、これまでの自分の説教を振り返ってみると、恥ずかしい、恥ずかしい……。
全部、削除してほしい(これからもその連続にしかならないとは思いますが)。
知ったような口調で“解説”しているだけ、という内容のどんなに多いことか。
それはね、ほんとにつまらないですよね。くだらないというか。
どんなに口角泡飛ばして話したとしても、上滑っていきますね、確実に。

説教は、解説であってはいかんなと。
「生きた言葉」でないといかん。
そうでないと、届かない。

ということは、毎週毎週、そのチャレンジなのです。
そのテキストに、どれだけ向き合えるか、どれだけ自分のものにできるか、
解説ではなく、自分の言葉(のよう)にして、生きたものとして届けられるかどうか。
これはえげつないなあと、今更にして感じております。

でも、聖書っておもしろいんです。
どこを読んでも発見がある。
汲めども汲めども尽きない泉。

おそらくですね、三浦綾子・光世夫妻もそのような感覚をもっていたのではないか、そのように思いました。
そのヒントになったのが、2つの作品です。
三浦綾子・再話「わたしたちのイエスさま」(1981年・小学館)
三浦光世・再話「少年少女の聖書ものがたり」(1975年・主婦の友社)
お二人の作品を整理していて「あっ!」と思ったのです。感激でした。

綾子さんも光世さんも、「聖書の話そのもの」を届けることを意識していたということです。
普段のお二人は、小説やエッセイなどの作品を通して福音を伝えているわけですが、
もう、究極的には、そこに行き着くわけですよね。聖書そのものを伝えるという。

面白いことに気が付きました。
「旧約聖書入門」の連載は、1972〜1974年、
「新約聖書入門」の連載は、1977〜1978年、
「イエス・キリストの生涯」(書き下ろし)は1981年10月の刊行。
そして、「わたしたちのイエスさま」(書き下ろし)は、1981年12月の刊行なんです。

そう、たどり着いたんじゃないかと思うんです。聖書の話そのものを届けるということに。
「旧約聖書入門」も「新約聖書入門」も名作で、今も増刷されています。電子書籍でもダウンロード数のランキング上位(三浦綾子著作で)です。「イエス・キリストの生涯」も近年まで増刷が続いていました。とても多く読まれた作品です。
でも、綾子さんにとっては、それ以上を求めたのではないか、「聖書の話そのもののおもしろさ、恵み深さ」を届けたかったのではないか、そのように思いました。

「少年少女の聖書ものがたり」は、光世さんの最初の著書なんです、実は。
綾子さんは作家ですから、「わたしたちのイエスさま」にたどり着くのに段階があるわけですが、
光世さんは歌人ではあるものの、いわゆる著述家ではないので、いきなり目指せるわけですよね。
ですから、いの一番に「少年少女の聖書ものがたり」を書くことができた、そういうことです。
ここに、綾子・光世夫妻の思いが見て取れるような気がします。

「言葉の本質」

三浦綾子さん・光世さんは、言葉の持つ本質を捉えていた、
当然のことではありますが、そこに凄さを覚えます。
作家として、というだけでなく、その土台に、信仰者としてのそれがあったから、作品に力があるんだなと、届くんだなと。その言葉を生きる、ということを体得していたんだろうなと。

三浦綾子作品に登場する人物が発する言葉に力があるというか、実感があるというか、リアリティがあるのは、善人であれ悪人であれ(三浦綾子作品には、いわゆるモブキャラが少ない)、その言葉が生きているんだなと思うわけです。とんでもない悪党が発する言葉にも、生々しさのあるおぞましさがこもっているわけで、生きた悪なんですよね。三浦綾子作品の魅力は、こういうところにもあるのかと思っています。

というわけで、どんどん読みたいですね。
そして、どんどん好きをこじらせたい。笑
単なる解説にならないような、生きた言葉として三浦綾子作品を届けたい、そう思います。

なので、読み聞かせ文集を作っている、ということです。
暮らしのなかで、身近に、三浦綾子作品に触れていただけるきっかけになればと願っています。
無事に刊行されましたら、あらためてお知らせいたします!

以上、2025年を迎えるにあたっての抱負でした!

難波真実

X(Twitter)@MasachikaNamba
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Bluesky masachikanamba
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コメント

  1. mai.kaguraoka より:

    難波さんこんばんは!
    綾活民の皆さまこんばんは!

    「好き」であることは大事なことだとワタシも思います。
    三浦文学案内人の皆さまは、きっとみなさん三浦文学が「好き」なんだと思います。
    だからこそ、案内に気持ちが入っているような気がします。
    (近藤さんしか聞いたことはありませんが、他の方もそうであるはず)。
    「流行だから好き」というのではなく、心底好きだからこそ、
    誰かに伝えたい、伝わってほしいと思えるのでしょう。

    そう考えますとですね、ワタシは本当に三浦文学が好きなのか?と
    改めて思ったわけであります。さっきそう思った。
    創作ができるわけでもないし、セリフを覚えているわけでもなく、
    登場人物の名前を憶えていることすら怪しいワタシですが、
    こんなに一人の作者の作品を読んだのはこれが初めてなので、
    きっと好きなのでしょう。
    三浦夫妻も好きだし、作品も好き。
    いま三浦文学を伝えている人たちも好きですね。
    #綾活 を通じて、
    旭川にいなくても三浦文学を楽しむことができることが、
    本当に幸せだと感じています。

    文学館の皆さんや他の綾活民の皆さまが「解説する人」だけであったなら、
    こんなに自分に刺さったコンテンツにはならなかったと思っています。
    来年も楽しくおつきあいできたらいいなと思っています。
    それでは、また!

    神楽岡マイ

    • 難波 真実 より:

      > 「流行だから好き」というのではなく、心底好きだからこそ、
      > 誰かに伝えたい、伝わってほしいと思えるのでしょう。

      そう言っていただけると嬉しいです。

      > こんなに一人の作者の作品を読んだのはこれが初めてなので、きっと好きなのでしょう。
      > 三浦夫妻も好きだし、作品も好き。
      > いま三浦文学を伝えている人たちも好きですね。
      > #綾活 を通じて、旭川にいなくても三浦文学を楽しむことができることが、本当に幸せだと感じています。

      嬉しくありがたい言葉です。
      私自身も、#綾活があるおかげで、暮らしに潤いと活気をもらっています。

      > 来年も楽しくおつきあいできたらいいなと思っています。

      こちらこそ!
      新年もどうぞよろしくお願いいたします!
      2024.12.31 難波真実

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