印象に残ったオノマトペ語句の12語目です。
ざらざらと、ひげの感触がうれしかった。
三浦綾子『雨はあした晴れるだろう』[共犯者](八月二十九日)
この語句は、今のところ(収録している18作品で)、『雨はあした晴れるだろう』と『積木の箱』で使われています。
『雨はあした晴れるだろう』はジュニア小説です(季刊「別冊女学生の友」小学館1966年5月)。
ジュニア小説でこの描写は攻めてますよねえ。
「うれしかった」? ほんとか? と、私なら思いますが、
舞い上がっているサチコには、うれしい感覚だったのでしょうね。
しかし、これ、路上ですよ。近くに電灯がない、真っ暗闇とはいえ。
いやあ、すごいな。
しかし、『積木の箱』で使われている「ざらざら」は、これ。
「なんだか、ざらざらした泥の手で、体にさわられたような、いやな感じね」
三浦綾子『積木の箱』[入道雲]
同じ「ざらざら」でも、真逆の反応ですね。
この場面は、商店を経営している久代と、そこに下宿している中学教師の敬子との会話です。
敬子にとんだアクシデントが起こり、そのことを話題にしているのですが、これもまた異性絡みのことで、状況や内容は全く異なるものの、『雨はあした晴れるだろう』での快感に対して、こちらは嫌悪感。
同じ語句で、こうも違う印象づけができるものかと感心します。
『積木の箱』の場面では、この会話の前に、久代親子の人生を狂わせるような大きなアクシデントが起こっていまして、ある理由でその出来事を伏せたまま、久代と敬子は会話をしているのです。
久代は、そんな大きな出来事を隠したまま敬子と話していることにもどかしさや胸苦しさを感じているはずで、それに輪をかけて、敬子に起きたアクシデントのほうも気になっている(自分のミスという罪悪感)という二重苦でした。
そんなわけで、敬子が発したこのセリフに、久代は「粟立つような寒気をおぼえた」と記してあります。そして、そんな久代の様子を見て、当の敬子は笑っているという、そういう場面でした。
敬子が「ざらざら」と言ったことで、久代も同じく「ざらざらとした泥の手で、体にさわられたような、いやな感じ」がしたのでしょう。
瞬間的に、言葉が共有された(嫌な感じで)、そういう描写なのですね。
これもまた、言葉でありながら、音である、というオノマトペの本質を用いた情景描写なのだろうと思います。敬子の言葉を音としても捉えて共有してしまった久代によって、読者もその「ざらざら」を共有してしまう。そういう効き目があるように思います。
そして、敬子が笑った(本人に悪気はなく、明るく陽気な性格そのまま)直後に、この章が終わるのです。映像でいえば、そこでいきなりカットになった、という終わり方です。
観ている(読んでいる)側にとってみれば、「ん?」という唐突感と、それによって引き起こされるもやもや感で、次の章への不安と期待が増幅されるわけですね。
『積木の箱』は、朝日新聞(夕刊)の連載ですから、新聞読者の心をおおいにざわつかせただろうことは想像にかたくありません。次回を心待ちにしたことでしょうね。
『雨はあした晴れるだろう』での「ざらざら」とは一味違う、一段腕が上がった三浦綾子さんの表現術でした。
昨夜の夕飯の鍋の残りに、豚ひき肉(10%割引)と冷やご飯と卵を投入し、最後にチーズをかけて、雑炊のようなリゾットのようなものが出来上がりました。これはこれで美味しかったです。
では、また。
難波真実
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