印象に残ったオノマトペ語句の17語目です。
その悠々とした街の眺めさえ、ふじ子を思うと信夫には悲しかった。
三浦綾子『塩狩峠』[札幌の街]
この語句は、今のところ(収録している18作品で)、『塩狩峠』『雨はあした晴れるだろう』『草のうた』『死の彼方までも』『裁きの家』の5つの作品で使われています。
「悠々」は、ゆったりとした広さなどのイメージですね。人の動きとしても、ゆったりと落ち着いたさまをあらわします。ですので、どちらかというとポジティブな響きがしますね。
ところが、冒頭の「悠々」はその対比として、「悲しかった」という逆のイメージを書き表すのに使われています。というのは、前の文章がフリになるからですね。
大きな風呂敷包みを背負って、子供の手をひいていく女も、カンカン帽をかぶり、浴衣を尻はしょりしていく老人も、大八車を引き、額に汗してくる若者も、みなどこか悠々としている。
三浦綾子『塩狩峠』[札幌の街]
東京から出てきた永野信夫が札幌の街に降り立ち、眺めた風景です。
東京の文京区本郷で生まれ育った信夫は、北海道の街の造りと広さに目を瞠ったことでしょう。
東京の街をひとくくりにはできませんが、しかし、あまりの違いに驚いたことだろうと思います。
それが、「悠々」という語句になってあらわれているわけですね。
けれども、その「悠々」と広い札幌の街に驚き、新鮮な感動を覚えながらも、信夫の心は晴れなかった。それが冒頭の一文です。
ふじ子の置かれた境遇を思うと、信夫は胸が痛み、苦しくなるのですね。
自分ではどうしようもない、周りもまた、手の差し伸べようがない、病という困難。
それでも信夫は、ふじ子に元気になってほしいとの一念で懸命に寄り添おうとします。
このあたりのことは、三浦綾子さんを支えた実際の人々の姿が重なりますよね。
青春時代を描いた自伝小説『道ありき』に詳しく書かれていますが、
元婚約者の西中一郎さん、恋人の前川正さん、夫になった三浦光世さん、それぞれの姿がオーバーラップして見えますね。
私は、『塩狩峠』の信夫とふじ子の関係は、先の三者とのそれぞれの思い出が投影されているように思います。そういう意味では、『塩狩峠』は、やや自伝めいたことが多分に盛り込まれた作品として、それらが解像度の高さを生み、ストーリー展開の巧みさと、心に深く突き刺さることば群によって、多くの人々に読み継がれる名作となったのではないか、そのように思います。
もちろん、クライマックスの史実は大きなウェイトを占めるわけですが、そこに至るまでの成長譚で、読者がぐんぐん引き込まれていくわけですよね。それによって、クライマックスの説得力が増しているのは間違いないと思います。
それにしても、旭川で生まれ育った三浦綾子さんが、信夫の見た札幌の街をなぜこれほどに解像度高く描けたのか、そこが謎です。
私は兵庫の神戸出身なので、信夫の驚きが非常によく分かるのです。手に取るように分かる。自分のことを書いているのか?というぐらいの見え方です。もちろん、時代が違うので、細かいところではなく、ですが。
旭川の人が、札幌でこんなに感動できるものだろうか、という素朴な疑問が拭えないのですが、それをできるのが作家ということなのでしょう。ま、だから作家なのでしょうね。
「悠々」は、まさに北海道のためにあるようなことばですね。私はそう思います。
大陸にわたったら、それはそれで、「ここのためにあるような」と感じるのでしょうけれど、
今は、北海道です。
ちなみに、この「悠々」ですが、『雨はあした晴れるだろう』だけは、ひらがなで書かれています。
さらにその川下で美瑛川と忠別川をのみこんだ石狩川が川幅ひろくゆうゆうと流れていくのがよく見える。
三浦綾子『雨はあした晴れるだろう』[だれよりもあの人に!](七月三十一日)
この景色もまた、まさに「悠々」ですよね。旭川の嵐山から眺めた景色です。ほんとに、「悠々」です。
ご覧になられたことがない方は、ぜひ一度現地で眺めてみてください。その際には、北邦野草園も散策してくださいね。ちなみに、この野草園のオープン時には、祝賀会で三浦綾子さんがお祝いのスピーチをしています。こぶしの花が美しかったと、光世さんの日記(1972年5月2日)にも記されていました。
さて、今日はスーパーで小松菜が安かったのでおひたしにしました。この時期は、魚のたらも安くておいしいですね。塩コショウとオリーブオイルでさっと焼くだけで、ごちそうになります。
では、また。
難波真実
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