『天北原野』をたずねて ~その1 稚内港 北防波堤ドーム~

作品舞台の訪問記

みなさんこんにちは! ゑむゑむ@バーズです。

稚内在住なので、先日、道北~樺太が舞台の『天北原野』にまつわるスポットをまわってきました! その様子を複数回に分けてこちらに掲載させていただこうと思っていますので、なにとぞお付き合いください。
※『天北原野』については、こちらをどうぞ(三浦綾子記念文学館 作品紹介ページ)

まずは稚内といえばここ! 稚内港 北防波堤ドームです♪

稚内といえば有名なのは日本のてっぺん・宗谷岬ですが、宗谷岬は市街地から車で片道30分ほどかかってしまうのと、一方ドームは稚内駅のすぐ近くにあってさまざまなイベントの会場になることが多いので(全国的に有名なものだと「南中ソーラン祭」ですかね)、市民にとってはドームのほうが身近なんじゃないかな~と勝手に思っています。

実際、ドームのそばを通ったときは、朝でも雨でも誰かかれかいます。
観光客が写真を撮っていることが多いです。やっぱり駅近だからですかね。そばにホテルもありますし。地元民もよくおさんぽしています。
また、斬新なデザイン・優れた機能性・歴史的な価値が融合した港湾構造物として、2001(平成13)に北海道遺産に登録されました♪

南樺太が日本領だったとき、ここ北埠頭は稚内と樺太(大泊&本斗)を結ぶ2航路の発着場として利用されており、防波堤ドームは1936(昭和11)に完成しました。
船発着場と当時の最寄り駅が遠く不便だったため、ドーム完成の2年後に思いきってドームの端まで鉄道をのばし、さらにドームの中に「稚内桟橋駅」を造ったことで交通の便がよくなり、物流の要としてにぎわいを見せたそうです。
(↓こちらは樺太記念館にある稚内桟橋駅のジオラマです!)

その後、敗戦を迎え、旧ソ連領となった樺太から引き揚げてきた人たちでドームはいっぱいとなり、命からがら引き揚げてきても、稚内に家がない人たちはここで寝泊まりしていたとのこと…。
また、引き揚げてきた多くの人がそのまま稚内に定住し人口が3万人を超えたため、市制が敷かれ「稚内市」となりました。
作中にはドームについての描写はありませんが、お貴乃と京二もおそらくここで稚内に降り立ち、そのまま稚内にある孝介の家に身を寄せることとなります。

そして、敗戦から10日も経たない8月23日に旧ソ連が宗谷海峡を封鎖。
翌24日の朝に入港した宗谷丸を最後に、稚内桟橋駅は事実上の閉鎖となりました。
以降、旧ソ連領となってしまった樺太への往来は叶わず、樺太で亡くなった方々や、帰れなくなってしまった樺太を想う気持ちは悲痛極まりないものとなりました…。
(稚内には樺太関連の記念碑・慰霊碑が多いので、また後日ご紹介いたします*)

こちらは山の上にある稚内公園から撮ったドーム方面の写真です*
このときはちょうどフェリーが出航したタイミングでした♪ 写真右端のほうに写っています。
(奥に写っている陸地はサハリン…ではなく、宗谷岬のあたりです。風力発電の白いプロペラが林立しているのがわかります)

ご覧のとおり、ドームの奥にも道がのびていますが、今は途中までしか行くことができませんし、すべて道路になっており駅舎や線路は影もかたちもありません。
しかし、ドーム自体は取り壊されることなく、その後も1965(昭和40)頃までは石炭や資材置き場として活用されていました。
また、2008(平成18)に今のフェリーターミナルができるまではドームの前に利尻・礼文航路のターミナルがありました。
たびたび改修されながら、防波堤ドームは稚内のシンボルとして今日も港を見守っています。

今回は『天北原野』に描写のないスポットでしたが、稚内へのイントロダクションとしてご紹介させていただきました!
お読みいただき、ありがとうございました♪

ゑむゑむ@バーズ

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