『天北原野』をたずねて ~その2 稚泊航路記念碑~

作品舞台の訪問記

今回はこちら! 稚泊航路記念碑をご紹介します*
前回ご紹介した北防波堤ドームの、今現在行けるエリアのいちばん奥にあります。

稚内⇔大泊を結ぶ航路は「稚泊航路」、稚内⇔本斗を結ぶ航路は「稚斗航路」といい、1923(大正12)にこの2航路が開通したことによって、陸路と海路をあわせて本州⇔北海道⇔樺太をつなぐルートが完成! 稚内は「海の玄関口」として大きな飛躍を遂げました。
この記念碑は、稚泊航路がもたらした輝かしい繁栄と先人の苦労を称えて1970(昭和45)に建立されました。

ここ稚内港から大泊までは片道167km、約8時間かかったそうです。(ちなみに・・・今のフェリーだと、稚内⇔利尻間は約52kmで所要時間は1時間40分、稚内⇔礼文間は約60kmで所要時間は1時間55分です)

夏は濃霧、冬は流氷だらけの宗谷海峡を渡るのに難儀していたようですが、昭和初期に砕氷客貨船 亜庭丸(アニワマル)と宗谷丸(ソウヤマル)が就航し大活躍しました!
2船あわせて1日に1,500人、貨物1,057tもの輸送が可能となり、「海の動脈」と呼ばれるほどの輸送量と安定感を誇る航路となりました。

樺太における当時の主な産業は、漁業・炭鉱業・牧畜・林業・パルプ工業でした。
漁業は言わずもがなですね! 作中でも、孝介が大泊のほかに真岡と栄浜でも漁場を営んでいました。 また、樺太の針葉樹林がパルプ生産に適していたため、林業も盛んでした。完治が造材業を営み、製紙会社と取引を行っていましたね。当時の日本国内における新聞紙のなんと8割が樺太産のパルプからできていたそうです。
ほかには、石炭や、防寒具に使用する毛皮用のキツネを育てる養狐業も盛んだったそうです。

このように、当時の樺太には豊富な資源がありました。お金のニオイに敏感な伊之助と完治が一儲けしようと樺太に飛びついたのも、大いにうなずける話です。。。

三浦綾子からは少し離れますが、ここで稚泊航路の、文豪にまつわるエピソードをひとつ。
最愛の妹・トシを亡くしたばかりの宮沢賢治が、この稚泊航路の就航が始まってすぐの頃に樺太に渡り、最北の鉄道駅があった栄浜に赴きました。
妹の魂の行方を求めた旅路の果てで降り立った栄浜。ここで海岸や湖を散策しながら、代表作『銀河鉄道の夜』の着想を得たと言われています。
また賢治は、宗谷海峡を渡る連絡船「対馬丸」の上でも『宗谷(一)(二)』を作詞しました。

『天北原野』しかり『銀河鉄道の夜』しかり・・・日露戦争を経て日本領となるまで外国だった樺太は、何か文学的なスパイスにあふれた土地だったのでしょうか?
(宮沢賢治の北海道旅行を題材に、三浦綾子もストーリーに登場する公演「Asahikawa・・・繋がりゆく魂」についてはこちらでご案内しています!)

前回ご紹介したドームは有名ですが、この記念碑は市民にも意外と存在が知られていない印象があります。ドームにいらした際はこの記念碑の鐘を鳴らして、栄華を極めていた当時の稚内港に思いを馳せてみてください♪

ゑむゑむ@バーズ

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