『天北原野』をたずねて ~その4 樺太島民慰霊碑「氷雪の門」~

作品舞台の訪問記

今回は氷雪の門をご紹介します♪
氷雪の門は、坂道をぐいぐい登っていった高台にある稚内公園内に建っています。
正式名称は「樺太島民慰霊碑」ですが、 市民からは「氷雪の門」と呼び親しまれている有名な観光スポットです。

豊富な資源を持ち、栄華の盛りだった樺太に戦争が影を落としたのは、最末期の1945(昭和20)8月9日のことです。
突如、ソ連軍が国境を越えて侵攻し、国境地帯付近の街で激しい戦闘が繰り広げられました。
完全降伏を求めるポツダム宣言を日本が受諾し、8月15日に戦争が終結しましたが、それでもソ連の進軍は止まらず、25日に大泊が占拠されるまでに至りました。
この戦いに巻き込まれてしまった民間人の犠牲者は推定約2,000人。前回ご紹介した三船殉難事件による犠牲者も合わせると、約3,700人もの尊い命が奪われたことになります…。

このような混乱もあり、当時、樺太に暮らしていた約42万人のうち、終戦の直後に北海道に引き揚げてこられたのは7万人程度しかいなかったといわれています。
また、避難が間に合わなかった人の中には、ソ連兵に捕まることを恐れて自決した方々もいました…。
樺太に残された方々はソ連の行政下で暮らし、日本への帰還は、公式の引き揚げが行われた1946(昭和21)~1949(昭和24)まで待たれることになりました。

この像は、その後帰ることが叶わなくなってしまった樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人々の慰霊のために1963(昭和38)に建立されました。
「樺太に渡るのも帰るのも稚内を通ること」からちなんだ門の部分と、「厳しい雪と氷の中で生き抜き、敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々」を象徴する女性像からなる、美しい彫刻です。
このような理由から、関係者が「氷雪の門」と命名しました。
また、女性像が手のひらを見せて天を仰ぐ姿には、樺太も家族も失ってしまった悲しみと、人々の天への祈り・哀訴、そしてたくましい再生への誓いを表しているそうです。

この由来を知ったとき、樺太出身ではありませんが、わたしは綾子さんが脳裏に浮かびました。
綾子さんを含む当時の方々が、敗戦からたくましく立ち上がり、懸命に復興したおかげで今の日本がある…途方もない苦労と努力に、頭が下がる思いです。

なお、天気がいい日には、写真のようにこの像のむこうにサハリンの島影が見えます*
(2023.9.16追記:念願の、氷雪の門withサハリンの写真が撮れました♪♪♪)
樺太から引き揚げてきたお貴乃が、身を寄せた孝介宅の二階の窓から、青い海とそのむこうに浮かぶ樺太の島影を眺めるシーンがありますが、おそらく孝介宅は稚内公園に向かう途中の小高いところに建っていたのではないかと思われます。

また、夜は像がライトアップされ、昼とはまた違った幻想的な雰囲気が出ますし、稚内公園から望む夜景もとても素敵です!
名前のイメージどおり、冬に見れたら綺麗だろうなあ…と思いますが、高台に至る坂道が危険なことから冬期間は通行止めになるため、残念ながら冬に氷雪の門まで行くことはできません!
お越しの際はご注意ください。

次回は、もう少し樺太の歴史に踏み込んでご紹介したいと思います!
今回もお読みいただき、ありがとうございました*

ゑむゑむ@バーズ

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