『天北原野』をたずねて ~その5 望郷の樺太の碑~

作品舞台の訪問記

今回は、前回と同じく稚内公園内にある「望郷の樺太の碑」をご紹介いたします♩

こちらの記念碑は、樺太から引き揚げた方々による全国樺太連盟により、2019(令和元)に建てられました。現在樺太に存在する23基の日本人慰霊碑の場所と、故郷である樺太を思い詠まれた短歌3首が刻まれています。

「樺太は恋しき嶋よ 空懸けて 虹は炎えたつ 渡りてゆかな」
「樺太へ十二里の丘星流る」
「海山の幸多き島鳥渡る」

その3でご紹介した大鵬も、故郷の樺太について自著『最強の横綱-私の履歴書』の中で
「宗谷海峡を挟んで樺太(サハリン)までわずか43キロの距離。季節によってはくっきり見えるロシア最大の島の山並みを眺めれば、自然と『望郷』の思いがわいてくる。」 と語っています。
(※43キロは、宗谷岬からの直線距離です)

今回は、元日本領だった樺太がなぜ帰れぬ故郷となってしまったのか、歴史を見ていきます。
樺太の領土権の移り変わりについて、簡単に年表にまとめました。

年号条約名 内容や締結の背景など   樺太の所有権
1855(安政元)日露通好条約これまでの慣習どおり、日本人もロシア人も樺太に住んでよいとされた国境は画定せず
1875(明治8)樺太・千島交換条約樺太に住む両国人の間で争いが絶えなかったためソ連の領土
(そのかわり千島列島は日本領とされた)
1905(明治38)ポーツマス条約日露戦争の講和条約(日本側の勝利)北半分:ソ連領のまま
南半分:日本領となる
1945(昭和20)
第二次世界大戦末期
日ソ間の条約はなしヤルタ協定(後述)を根拠としてソ連が侵攻ソ連が南半分を奪って
全土をソ連領とする
1951(昭和26)サンフランシスコ
平和条約
(日・米・英で締結。
ソ連は調印せず
日本は主権回復と引き換えに領土を手放した
(「千島列島」の範囲の解釈が両国で食い違っている)
日本は樺太と千島列島を手放したものの、譲渡先は指定していない

そもそもソ連は、1941(昭和16)に締結された日ソ中立条約のために、日本と戦争することはできなかったはずでした。
また、同年8月にアメリカとイギリス間で締結された大西洋憲章では「戦争によって領土の拡張は求めない」という方針が明らかになっており、ソ連はそのわずか1ヶ月後にこの憲章へ参加を表明しています。

しかし1945(昭和20)2月、早く戦争を終わらせて戦後処理をしたかったアメリカとイギリスが、ソ連からの「南樺太・千島列島を含む土地をソ連領とすること」を含んだいくつかの要求を飲むかたちで秘密裏に結んだヤルタ協定を根拠にして、ソ連も参戦してきました。
(なお、当時はヤルタ協定の存在自体が秘匿されていましたが、締結から終戦を経て1年後にやっと公表されました。碑文中の「秘密協定」という表現はこのためです)

当時、ソ連と陸続きの国境を持つのは唯一樺太だけでした。
その国境を、ソ連はいともたやすく破り、攻め込んできたのです。
当時の樺太から生還した方は、のちに「今までは真っ正面のアメリカが敵だと思って戦っていたのに、背後から突然ソ連兵が攻撃をしかけてきたことはまさに寝耳に水だった」と語っています。
お貴乃たちが住んでいた南方の豊原にソ連襲来の報がもたらされたのは襲来から3日ほど経ってからで、最初はあまりのことに現実味がなく信じられなかったのですが、次々と街が焼き払われ、多くの血が流れ、迫りくるソ連兵の足音に逃げまどう人々が描かれています。

あまりにも残忍なかたちで樺太が完全に占拠されてしまったのは、終戦後の8月25日のことです。
避難が間に合わなかった方々の中には、捕まる前に自決した方々や、ソ連兵に「ダモイ(帰れるぞ)」と言われ列車に乗せられたものの、それは嘘であり、そのままシベリアやソ連各地、モンゴルなどに労働力として連行され、厳しい抑留生活に耐えきれず亡くなった方々も大勢いらっしゃいます…。

樺太の戦いで亡くなった方々、
樺太から強制連行され、樺太の地も日本の地も踏むことが叶わず亡くなった方々、
生まれ育った樺太を追われ、故郷に帰ることが叶わない方々…

望郷の樺太の碑と氷雪の門は、「樺太にまつわる方々の悲痛な思いを決して忘れてはならない」とわたしたちに訴えかけています。

その後、1951(昭和26)に日本と第二次世界大戦の交戦国との間で結ばれたサンフランシスコ平和条約において日本は主権を回復しましたが、同時に南樺太と千島列島を含む領土の所有権を放棄することになりました。
しかし、ソ連はこの会議に参加していたものの、条約に不満があり調印はしませんでした。

そのため、日本側の公式見解は
樺太の所有権をソ連(及び 崩壊後に体制を受け継いだロシア)に譲渡したわけではない
そもそも条約に調印していないソ連は権利を主張できる立場ではない」とされています。

一方のロシアは「樺太の所有権は日本が放棄したし、ヤルタ協定があるのでロシア領である」 と主張し実行支配しています。

またこのとき(樺太の話からは逸れますが)、北海道からごく近い歯舞群島、国後・択捉・色丹島の4島(いわゆる北方領土)の認識については、
日本「北方領土については、今回所有権を放棄した千島列島には含まないので変わらず日本領だ
ソ連「北方領土も千島列島に含むので日本領ではないだろう
という食い違いが生じており、こちらも樺太同様、ヤルタ協定に基づいてソ連が所有権を主張しています。

日ソ間の国交回復は1956(昭和31)の日ソ共同宣言まで待たれることになりましたが、この宣言の中でソ連側は「平和条約の締結後に色丹島と歯舞群島を善意に基づいて譲渡する※「返還する」という表現ではない)」と表明するにとどまっており、ロシアとの平和条約締結に向けて現在交渉が進められているほか、領土問題の解決法についてさまざまな議論が続けられています。

樺太の領土権についてのおおまかな説明は以上です。
かなりの文量となったにも関わらず「おおまか」と書いたのは、ここに書ききれないほどさまざまな事情が複雑に絡んでいるためです…。

わたしは日本に住んでいる日本人なので、便宜上、日本側に立った表現を多用しましたが、もともとロシアの領土とされた樺太の南半分を日本が戦争で領土とした背景があるなど、いろいろ調べるうちに、わたしにはどちらが被害者なのかわからなくなってしまったのが正直なところです。

多くの日本人が騙されてシベリアへ強制連行された話も、そこだけを切り取ると「ロシアはなんてひどいことをしたんだ」と思ってしまいますが、日本も過去に他国に対して強制連行・労働を強いるなど、同じことをしてきたのです。
(三浦綾子も、『銃口』『青い棘』などで日本人による中国人・朝鮮人の強制連行について言及しています)
もちろん、過去の日本の過ちは、強制連行だけではありません…。

ただひとつ確信を持って言えるのは、外交上の問題を武力で解決しようとする「戦争」は、絶対に間違っているということ。
国の事情で命を奪われたり、奪わせたり、故郷を追われたり…その中で生まれる互いへの憎しみは、多くの人の目を曇らせ、そして再び過ちを犯させ、それは戦争が終結した後も怨恨として残り、平和的な解決に向かって歩もうとする上での障害となってしまうためです。

たとえ違う国に住んでいても、わたしたちは同じ「一人の人間」です。
一人ひとりが互いを尊重しあって、決して互いの生活を武力で踏みにじることがないように…
樺太にゆかりのない者であっても決して他人事ではなく、平和について一人ひとりが責任をもって考えよう…そういった思いが湧いてくる記念碑です。

ゑむゑむ@バーズ

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