『天北原野』をたずねて ~その8 お貴乃の足取りをたどる~

作品舞台の訪問記

稚内編最終回となる今回は、終戦後、稚内に引き揚げてきたお貴乃の足取りをたどってみます!
その1でも少し触れましたが、命からがら、樺太から引き揚げてきたお貴乃は、孝介が稚内に所有していた家に身を寄せることになります。
途中1ヶ月ほど、父の兼作もいる小樽に渡り、兄の家に滞在しますが、再び稚内に戻ってきます。

今回は、稚内に戻ってきたあと、実際に街を歩いている描写からお貴乃の足取りをたどり、現在の稚内と照らし合わせてご紹介したいと思います!

今回の記事を書くにあたって、終戦頃の稚内市街地の地図を見たいなあと思い、まずは稚内市立図書館にあたってみました!
結果、終戦当時頃の地図は残っていませんでしたが、1930(昭和5年)と1954(昭和29)、1955(昭和30)の地図を得ることができたので、それらと現在の地図を見比べて場所を特定していきます*
しかし、昔のものも含めて地図をそのまま載せることはできないので、得られた情報をもとに、Google Map上でお貴乃の足取りを再現してみました!

なお、写真もご紹介しますが、撮影日=投稿日=今日、稚内に初雪が降りまして(しかも暴風警報付き!)、見事に冬景色になっていることを申し添えます…(´・ω・`)笑
ストリートビューは今年6月時点でのデータとなっておりますので(※投稿日時点)夏の町並みをご覧いただけます!
それでは、初雪が猛り狂うちらつく稚内ですが「貴乃さんぽ」行ってみましょう♩

①大龍山法雲寺(中央2丁目1-7)

お貴乃が、子どもたち(弥江と千代)の月命日である毎月22日におとずれるお寺です。
(ちなみに、作中で町を歩いていたのは6月22日です)
少なくとも昭和5年からずっとここにあるお寺で、地図にもはっきり残っていました!
なお、この法雲寺のある通りは現在も「山下通」であり、南端は現・稚内市役所と突き当たるところで、北端の稚内市体育館まで1kmほどのびています。
先述した、お貴乃が身を寄せている家は山下通にあると作中に書いているので、場所は定かではありませんが、この通り上にあったのだと思います。

②稚内郵便局(中央2丁目15-12)

法雲寺を出たお貴乃は、兼作と義兄の達吉にあてた手紙を2通、本局へ投函しに行きます。
こちらも昭和5年からあり、当時の本局と同じ位置に、現在は稚内郵便局があります。

お貴乃のようにポストへ手紙を投函し、一息ついてみます。
(難波さん、どんなはがきが届くか楽しみにしていてください!!)

激動の日々で最愛の子どもたちを亡くし、夫と義父も行方知れず。
心労の取れないお貴乃は、疲れた体をひきずってこれからどれほど歩くのでしょう?

☆防波堤通(現・北海道道106号稚内天塩線)

信号ってカメラで見ると点滅しているんですね(うまく写らなかった)

稚内郵便局から稚内駅まで延びている道路が、昭和5年当時は防波堤通という名前でした。
(ちなみに、昭和29年には「波止場通」という名前になっています。いつ変わったんだろう?)
お貴乃はこの道路を駅に向かって歩き、当初は港(その1でご紹介した北防波堤ドームかと思われます)まで出ようと思っていました。
ですが、港を見ると、終戦直後になんとか引き揚げてきたことや、子どもたちを亡くしたつらいことを思い出してしまう…ということで、次の場所に向かいます。

③拓殖銀行跡地(現・北洋銀行稚内支店/中央2丁目13-15)
④北浜廉売跡地(現・相沢食料百貨店/中央3丁目5-8)

防波堤通を駅に向かって歩いていたお貴乃は、港に行くのをやめ、銀行のところを右に曲がり、北浜廉売で身欠きニシンを買います。
この角にあった銀行というのは、拓殖銀行だと思います。
当時はここに拓殖銀行と、駅側に道路を挟んで北洋銀行がありましたが、今は拓殖銀行の旧店舗跡に北洋銀行の店舗が、北洋銀行の旧店舗跡に北洋銀行の駐車場があります。

北浜廉売は、残念ながら現在はありません。
跡地のブロックには、現在、相沢食料百貨店があります!
稚内の他のお店にはない、全国各地から取り寄せた珍しい商品を売っていることで評判です。
また、公式Xでは、取り扱い商品や特売情報、ときどき駐車場で開かれるキッチンカーイベントなどの情報を発信しています♪

肉のにれは、現在はもう少し北に移転しています

このブロックを北端として、南へ3ブロック分がアーケード街になっています。
昔は今よりロシアとの交流が盛んだったため(現在、稚内⇔サハリンのコルサコフ便は休止中です)お店の名前がロシア語でも表記されています。
また、毎年7月には、近くの北門神社のお祭りで出店が並び、とてもにぎわいます!

現在のアーケード街が、当時の「北浜通」にあたります。
北浜廉売は北浜通3丁目に位置し、南に2丁目、1丁目、さらにその先から南浜通1丁目…と続きます。

⑤お貴乃が孝介と会った通り(旧・瀬戸邸〔中央4丁目8-27〕付近?

北浜廉売を出て、南に2・3丁進んだお貴乃は、通りの真ん中にたたずむ孝介を見かけます。
孝介の視線の先には、樺太に渡る前にお貴乃が住んでいた家(旧・須田原邸)がありました。
はっきりと位置が書いていないので特定できませんが、孝介が立っていたと思われるあたりには現在、旧・瀬戸常蔵つねぞうがあります。

旧・瀬戸邸は、昭和20~40年代に機船底曳網漁船を用いた漁業を営み、稚内の漁業と経済の発展に大きく貢献した瀬戸常蔵の家です。
現在は有形登録文化財「旧瀬戸家住宅主屋」として、稚内の漁業にまつわる資料が展示されていて、見学することができます!
(瀬戸邸が建てられたのは1952〔昭和27〕とのことで、作中当時は存在していなかったかと思われますが、昭和29・30年の地図には「瀬戸漁業部」としてバッチリ残っていました!)

先述の、お貴乃が身を寄せている家とは別に、孝介は南浜通に住んでいると書かれていますが、ちょうど旧・瀬戸邸があるあたりが、昔の南浜通2丁目にあたります。
「孝介が()()()家の前にいた」とは書かれていないので、北から来たお貴乃から見て、孝介の家はもう少し奥(南)にあったのだと思いますが、わたしは「孝介はかつてお貴乃が住んでいた須田原邸の近くに居をかまえたのではないか…?」と考えてしまいます。(※稚内への移住はお貴乃のほうが先)
南浜通はまだまだ南にずっと続いているのと、正確な孝介宅の位置はわからないので確たる証拠はありませんが、愛する人のためなら金に糸目をつけない孝介だったら、そうしても不思議ではないかなと…。

ここで孝介はお貴乃に、いいものがあるから浜に行ってみてはどうかと提案し、お貴乃は浜のほうまで歩いて行きます。

⑥旧・須田原海産物店

お貴乃は孝介とあったのち、北浜通をずーっと北上して、9丁目の浜を目指して歩きます。
なお、かつての北浜通は、防波堤ドームから西に延びている道路(現・北海道道407号稚内港線/通称:利礼通)との交点より北側については、現在「北浜仲通」となっています。
(「仲通」となっているのは、現在はさらに海沿いに、平行に走る道路が1本増えたためだと思われます。北浜仲通は優先道路となっているので、当時のメインストリートであった名残が感じられます)

作中での描写は特にないのですが、お貴乃の道程を地図で見てみると、かつての須田原海産物店の前を通っていたのではないかと推察できるので、ご紹介します!
上巻の「波」の章で、稚内に移ってきた須田原家が海産物店を開く過程が書かれているのですが、作中では「河野海産物店」の隣に店をかまえたと書かれています。
さらに、付近には「樺太移民取扱事務所」や「梅の湯」があり、人の出入りが見込めるのでここに店を開けてよかったとも書かれています。

そしてなんと! 昭和5年の地図によると、北浜通6丁目にこれらの建物が載っていたのです!!
順に跡地を見てみましょう。

こちらは、河野海産物店の元ネタとおぼしき「川野海産店」が載っていたところです。
今は空き地になっています。
また、川野海産店と背中合わせで、同じブロックに樺太移民取扱事務所が建っていました。
(現在は民家です)

かつて梅の湯があったところも、今は空き地になっています。
これらの建物の跡地が見つかったことから、お貴乃は浜に向かう途中で、かつての須田原海産物店の前を通っていったのではないかと推測できますが、特に店跡を見て懐かしむ様子はないので、謎です。
お貴乃にとっては、17歳で完治に全てを奪われて以降は「死んだつもり」で生きてきたので、あえてしみじみと思い出すことではなかったのでしょうか…

お貴乃は、さらに北へ北へと歩いていきます。

思い出の

この浜が、作中におけるお貴乃の足取りの終着点です。
北浜通9丁目は、稚内公園の北麓から走るトベンナイ川が海に流れている地点を通り過ぎたあたりです。

さらにここは、須田原家が稚内にいたときに、お貴乃が子どもたちを連れてよく遊びにきていた浜だそうです(夏の写真でないのが一番悔やまれるポイント…)
ここでお貴乃は息子の加津夫に、自分と弥江にそっくりな婚約者の(みぎわ)を紹介されます。
さらに加津夫から、孝介が自分にある申し出をしようとしていることも聞きました。
お貴乃はボートに乗る加津夫と汀を眺めながら、不幸続きの自分の人生にも、かすかに希望の光を見いだします。
しかし……

「貴乃さんぽ」いかがでしたか?
今回お貴乃が歩いた箇所以外にも、汀が働いているという「管野旅館」とおぼしき場所を2カ所と、このあと孝介がお貴乃を豊富のサロベツ原野に連れて行く際に車を借りた「北門タクシー」も昭和29・30年の地図から見つけることができました!
それぞれGoogle Map上に目印をつけていますので、ご覧ください*

ちなみに、法雲寺から浜までのお貴乃の総移動距離は、約2.1kmでした!
これに、少なくとも家から法雲寺までの距離と、浜から家までの距離も合わされば、この距離よりさらに歩いたことでしょう。
「昔の人はよく歩く」と聞きますが、このあと発覚するお貴乃の体のこともふまえると、「よく歩いたなあ…」と感心してしまいます。
しかも、稚内における6月22日の平均最高気温は16.7度です。
(※気象庁調べ、数値は1991~2020のもの)
そう、稚内はまだまだ寒い時期なのです。本当に、よく歩いたなあ…

お貴乃の足取りをたどるにあたり、過去と現在の地図を比較してみましたが、とってもおもしろかったです(*・ω・*)
まず、お寺や駅、主要施設、河川などの位置は変わっていないため、場所を特定するのに大いに参考になりました。
その上で、「ここに道路が増えてる!」とか「駅前のブロックをつぶして今の駅前広場にしたんだなあ」とか、変わった場所もわかりました。
また、土地勘がある場所なので、今も存在するお店の名前を過去の地図から見つけては「うわあ~老舗なんだあ~」と感心しきりでした。
ブラ〇モリ的な魅力に、今回見事にハマってしまいました笑

さて、全8回にわたる稚内編はここでおしまいです。
お付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました*

ゑむゑむ@バーズ

コメント

  1. 難波 真実 より:

    なんとまあ、素敵なサプライズ!
    どんなハガキが届くのか、楽しみに待ちます!!!

    • em.em_birds より:

      難波さん、送ったはがきをシェアしていただきありがとうございました(*^ ^*)
      普段お世話になっている綾活メンバーのみなさまに喜んでいただけてよかったです(・ω・)!

  2. mai.kaguraoka より:

    「貴乃さんぽ」すごくよかったです!
    去年とおととしに稚内を訪れたのですが、これを見たらまた行きたくなってしまいました。
    ここまで調べていただいたのであれば、「氷点」「塩狩峠」「泥流地帯」のように、イラスト入りの地図を作って、「天北原野」を世に知らしめたいと思ってきましたね。(果て丘編はいつか私が作りたい)。

    「旧瀬戸邸」が出ていましたね。
    早朝に旭川から鈍行で稚内に移動し、タクシーで稚内公園の開基百年記念塔に行き、そこから歩いて山を下り、樺太記念館を見学したあとに、この建物の煙突を目にしたんですね。
    「ああ、銭湯か。歩き疲れたし、ひとっ風呂浴びるか」と思って行ってみたら全然違っていたという(笑)。
    せっかく来たんで、簡単に見学しようと思ったら、簡単どころか、中の人が文学館の案内人さんのように、実に丁寧に説明してくださったことを思い出します。結局、1時間以上滞在していましたわ。旧瀬戸邸を訪れるなら、案内をしてしていただいたほうが数倍いいです。

    樺太を簡単に訪れることができる日がいつか来たら、続編を期待しています!

    • em.em_birds より:

      ああ〜、イラスト入りの地図!
      確かに作れますね( ・`ω・´)b いいなあ…

      旧瀬戸邸いらしてましたか!
      やっぱり詳しい方に説明してもらうと楽しめますよね*

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