今回おとずれたのは、豊富町のサロベツ原野(サロベツ湿原・サロベツ原生花園)です!
作中では、敗戦を迎え、樺太から稚内に引き揚げてきたお貴乃がしばらく経って、孝介に「エゾカンゾウの花が見たい、サロベツ原野に連れて行ってほしい」と頼み、おとずれることになります。
エゾカンゾウに始まり、エゾカンゾウに終わる『天北原野』。
その訪問記の、しめくくりの地としてふさわしい舞台地かなと思いました!
作中でお貴乃たちがサロベツ原野をおとずれたのは7月頭でしたが、エゾカンゾウは5月下旬あたりから少しずつ咲き始め、7月上旬までが見ごろだそうです!
わたしは6月下旬におじゃましました~。
こちらは豊富町のサロベツ湿原センターです!
建物の中では、湿原の花や鳥、地形についての展示を見ることができます。
公式サイトと展示によると…
1万年ほど前、サロベツ周辺は海とつながる大きな湖でした。そこに生えた植物が枯れて、分解されないまま泥炭となって積み重なり、6千年以上の年月をかけてできたのが今の湿原です。栄養の乏しい高層湿原では、厳しい環境に適した様々な植物が次々と花を咲かせます。また、春と秋にやってくるオオヒシクイをはじめ、多くの渡り鳥がやってくるなど生き物の宝庫であり、世界的にも重要な湿地(ラムサール条約湿地)として認められています。
面積は6,700haで、東京ドーム約1,400個だそうです。
(広さをあらわすときによく見る「東京ドーム〇〇個分」という表現、あまりピンとこないのはわたしが道民だからでしょうか?)
日本国内の高層湿原では一番の広さを誇ります。
なお、敷地内にはエゾカンゾウだけではなく、他にもたくさんの花が咲いており、それぞれに見ごろがあるので、4月下旬~9月の間はいつ行ってもきれいな花を見ることができます!
人が手を加えなくても色とりどりで豊富な種類の花が咲くことから、「サロベツ原生花園」とも呼ばれています。
センターの裏手から湿原に向かって、そして再びセンター脇に向かってぐるっと全長約1kmの木道が設置されています。
今回はその木道を歩いてきました!
木道をずいずい進むと、早速エゾカンゾウを発見!
黄色い花びらがラッパのように開いた、可憐な花です*^^*
バラやボタンなどの花びらが多い花のような華美な印象はありませんが、凛とした気品がただよいます。
原作では、冒頭で孝介がお貴乃をエゾカンゾウの花に例えるシーンが印象的です。
(※この場面はサロベツではなく、2人の故郷、留萌地方にあるとされるハマベツという小さな漁村です)
関係をおおっぴらにせずひっそりと交際している若い男女が交わす、初々しくも精一杯の愛の言葉だと思うと…く~! 甘ずっぱいですね~~~!!(誰)
慕っている男性に、可憐な花にたとえられたお貴乃はさぞ胸をときめかせたことでしょう。
愛情のしるしとして大事な人に花を贈ることは昔からたびたびありますが、このときのお貴乃は、きっと愛する孝介から花を贈られたような心持ちだったと思います。
また、この場面で2人は結婚の約束を交わし、まさに幸せの絶頂にいました。
そう、そのあとに悲惨な運命が待ち受けていることも知らずに……。
(※ここまで訪問記を読んでくださっているみなさんなら大丈夫と思いますが…一応ネタバレ注意です!)
その後、お貴乃に待ち構えていたのは、惨憺たる人生でした。
完治の謀略によって孝介と引き離され、体を奪われ、血へどを吐く思いで孝介に手紙で知らせるも、音沙汰はなし。
絶望したお貴乃は、被害を公に訴えることもできず、両親を思うと自分の命を絶つこともできず、死んだつもりで完治に嫁ぎます。
3人の子宝に恵まれますが、奔放な完治を憎みつつ、一方では悩まされる中、ひさびさに再会した孝介はなんと完治の妹と結婚。
孝介とはまだお互いに好意が残っていることを感じ取りつつも、義理の姉弟以上の関係には踏み込むことなく、近くにいながら粛々とそれぞれの生活を営んでいきます。
しかし、今まで無縁と思われていた戦争の影が少しずつ忍び寄り、敗戦を迎えた直後から生活は一変します。
樺太を追われ、命がけで稚内に逃げてくる中で娘たちを亡くしたお貴乃に、さらに追いうちをかけるように病魔が迫ります…。
あらすじだけでもげんなりするような暗い展開の数々ですが(数えきれないほどいろんなことが起こりますしね…)、じっと耐えて、耐えて、耐え忍んできたお貴乃。
病に冒され、自分はもう長くないと感じているお貴乃が「最後のわがまま」としてなのか、孝介に頼んだことが「サロベツ原野のエゾカンゾウを見たい」でした。
さて、サロベツ原野でのシーンでは、2人が立つ湿原の地面がとてもふかふかであることに言及されています。
これは、サロベツ原野が泥炭地であるためです。
泥炭とは、水辺の植物が枯れたあと、ほとんど分解されなかった残骸が堆積してできたもので、見た目は枯れ草の混じった泥のようなものですが、れっきとした燃料の一種です。
そして、この泥炭が長い年月をかけて蓄積されると、柔らかい地盤の湿原となるそうです。
(余談:わたしは今回調べるまで泥炭というものを知りませんでした。「泥」も「炭」も身近なものなのに、2つあわさると未知の物質になるなんて…世の中にはまだまだ知らないことがたくさんありますね)
しかし残念ながら…現在のサロベツ原野では、木道から降りて、実際にふかふかの感触を確かめることはできませんでした。(昔は立ち入ることができたのでしょうか??)
また、孝介が「湿原の深いところでは馬さえ沈んでしまう」と言い、お貴乃が驚く場面があります。
湿原センターのそばには、泥炭を採取するために使われた浚渫船が展示されているのですが、特徴的なスクリューがついているのは、船が沈んでしまわないためだそうです。
馬どころかこんなに大きな船ですら沈んでしまうのなら、人間はひとたまりもない気がします。
いま湿原に立ち入れないようになっているのは、湿原の保全のためはもちろん、安全に配慮してなのかもしれないなと思いました。
後にも先にもつらいことが多すぎて、原野を眺めながら、お貴乃はこのまま孝介と一緒に原野に沈んでしまえたら…とさえ考えてしまいます。
めったに見えないという利尻富士をはるか西に臨むことができ、幸先がよいと喜ぶ孝介とは裏腹に、お貴乃の気持ちは沈んでいきます。
(現に、わたしがおじゃました日は利尻富士が見えませんでした! 残念…)
しかしそこへ夕日が差し込み、一面のエゾカンゾウと利尻富士が赤く染まった荘厳な景色を見て、お貴乃はそこに、この景色を創った存在と長い年月、人の考えが到底及ばない悠久さを感じつつ物語は幕を閉じます。
「自然の悠大さに胸を打たれ、それをお創りになった存在を感じ入る」
というのは、『続氷点』にも通じるラストシーンです。
個人的な話になってしまいますが、三浦綾子に光を与えたキリスト教に興味を持ち、いま聖書を読んでいるところです。
そしてつい最近、三浦綾子が『天北原野』や『泥流地帯』で取り上げた旧約聖書のヨブ記を読み終えました。
ヨブ記についてごくごく簡単に説明すると、
ヨブを見つけた悪魔は「さすがのヨブも災難に遭えば神を呪うに違いない」と考え、神様は「ヨブ自身の命はとらないこと」を条件に、ヨブを試みにあわせる許可を出した。
そして悪魔はヨブの子どもたちの命を奪い、さらにヨブ自身をもひどい皮膚病にしてしまう。
しかしヨブは「裸で生まれたのだから裸で人生を終えよう。神様は与えられる方でもあるし、取り去られる方でもある。すばらしいなあ。」さらに「神様から幸せを受けていたのだから、災いもまた受けるべきだ」と言い、神様を呪わなかった。
そんなヨブのもとに、3人の友達がお見舞いにきた。
当初彼らはヨブを励まそうとしていたが、ヨブが彼らの言葉を聞き入れられないほど落ち込んでいたため、少しずつ険悪なムードになっていき、しまいには「ヨブに罪があったからこんなひどい目にあったのではないか」とまで言い放ってしまう。
ヨブ自身も「わたしはずっと正しく生きてきたのになぜ神様は応えてくださらないのか」と言い始めるが、もう1人ついてきたエリフという男が「神様は全能で、我々が思いもよらぬ方法でどんな苦悩からでも救い出してくださるお方なのだから、神様を信じて、畏れて、あがめよう」と両者を仲裁する。
そこに神様ご自身があらわれ、人智を超えた御業の数々や栄光をお示しになったので、ヨブは自分の思いあがりを認め、ひれ伏した。
ヨブが自身の過ちを悔い改めたので、神様はヨブをそれまで以上に祝福し、ヨブは長生きして死ぬまで幸せに暮らした。
という内容になっています。
作中では、「ヨブ記」という名前こそ出てきませんが、お貴乃の父の兼作が上記の赤文字部分にあたる聖句を引用して、樺太から引き揚げてきたお貴乃を励ますシーンがあります。
また、ヨブ記の終盤で神様がおいでになった場面では、「人間には到底計り知れないこと」として、神様がお創りになったこの世の自然現象や動物などの森羅万象について、なんと数十行にわたって記述があります。
このように、人間は自分を中心としたごく狭い範囲でしか物事をとらえることができない(=ミクロの視点)のに対し、この世のすべてをお創りになった神様は、人間の思いもよらないところにまで(=マクロの視点から)あまねく力を及ぼすことができる存在だとされています。
加えて、三浦綾子を十数年間の病から立ち直らせて数々の作品を書かせたように、神様には信じる者のどんな困難をも最終的には益とされる力があると信じられています。
なので、ヨブ記からは「今つらく苦しい状況にあって、たとえすぐに救いの手が差し伸べられなくても、全能な神様を信じて耐え忍ぶことが肝要だ」という教えを汲み取ることができるのではないでしょうか。
ふたたび『天北原野』に戻ります。
一面のエゾカンゾウを眺めながら、孝介が「あと一年待っても、行方不明の完治が戻ってこなかったらそのときは…」とお貴乃に伝えるシーンがあります。
ですが、愛する人からのうれしい申し出のはずなのに、病のことを誰にも打ち明けていないお貴乃は浮かない顔をします。
ハマベツで結婚の約束を交わしたのが7月。
あれから数十年経って、その肩にとても背負いきれないほどの重く苦しい経験をして年を重ねた2人が、サロベツ原野で再び2人の未来について言及するのも、奇しくも7月です。
長い年月をかけて2人の中に積み重なる、とうてい消化することのできない苦々しい経験。
そんな2人の胸中を象徴するようなサロベツ原野での語り合いで『天北原野』は幕を閉じます。
しかし、自らの死を予見しているお貴乃ですが、作中で死んでしまうわけではありません。
お貴乃は、自分がおそらく結核だろうと考え、そして結核は当時特効薬もなく不治の病という印象が強かったので「死ぬだろう」と思っていますが、だからといって確実に死ぬとも限らないのです。
『天北原野』は他の三浦作品と比べるとわかりやすいキリスト教要素が少なく、結局お貴乃もはっきりと信仰を持つには至りません。
ですが、枯れた植物が積み重なった上に色とりどりの花を咲かせるサロベツ原野のように、
希望を捨てずに生き続け、やがて難病から立ち直った三浦綾子のように、
ありとあらゆる不幸を経験し、一心に耐え忍んできたお貴乃にも、その後の人生に光が差し込まれんことを願うばかりです。
全10回にわたって『天北原野』の訪問記をお送りしてまいりました。
掲載にあたって、あたたかいコメントや感想、励ましのコメントをくださった方々と、神様に感謝いたします。
どれも一ファンの一考察、一独自研究にしかすぎないものでしたが、なかなか救いどころがなく、三浦作品の中でもマイナーめな『天北原野』をお手に取っていただき、楽しんでいただく上でのきっかけとなりましたら幸いです。
そして! 実際に道北にいらして、作品の雰囲気に浸っていただければ、現地民としてこれ以上の幸せはございません。
『天北原野』の訪問記はこちらで一区切りとしますが、作品の魅力を語りつくせたわけではありません。
この先読み返す中で気づいたことがあれば、また書かせていただきたいなと思っています。
お付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました*
ゑむゑむ@バーズ
コメント
ゑむゑむさま
今回もステキな訪問記をありがとうございました。実にいい時期に投稿していただきました。このエゾカンゾウの写真を見ながら、朗読コンテストの録音をしていました(実話)。すごく心の支えになったんですよ?本当にありがとうございます。
ヨブ記とクロスする場面の解説もわかりやすくて、勉強になりました。三浦作品は読んだ後も、キリスト教的な角度からもう一度読み直してみると、違った感じ方を得られることが多いと思います。
このシリーズは単行本化が待たれますねぇ!(笑)
神楽岡マイ
マイさん、コメントありがとうございます*
声つむぎコンテストの取り組みもおつかれさまでした(*´ ω `*)
参考になったと言っていただけてうれしいですが、締め切り間際になってしまったので、もっと早くにでかしておけばよかったなあと思ってます(´ω`)
ヨブ記は実際に引用されているとはいえ、記事の後半部分は完全にわたしの解釈(と言えば聞こえはいいけどただのこじつけ)ですから…(´ω`)
個人的には、キリスト教について知るほど三浦作品について発見したり、解像度が上がっていく感じがしてとてもうれしいです!
ゑむゑむさん
今回も素晴らしい記事ありがとうございました!
私は湿原が好きなんですが天北原野を読みサロベツ原生花園の存在を初めて知りました。
どんなところだろうといつも思っていて、実際の写真を見れてとても嬉しいです。
とても良いお天気の日に訪問されたようで花も景色も格別ですね!
天北原野を象徴するものといえば私はやはりエゾカンゾウだな~と感じています。
エゾカンゾウ、湿地好き人間はニッコウキスゲと呼び親しんでいるお花ですが
天北原野を読んでからはエゾカンゾウという名称に特別な思い入れができました。
昨年、道内の高層湿原に行った際にたくさん見れるかな?と期待していましたが
鹿の食害が酷いようであまり見ることはできませんでした。
天北原野冒頭のお貴乃の「まぁこんなにたくさん!」とはいかず…
(しかもそれが湿原ではなく単なる孝介の家の裏っていう…
昔はわりとどこにでも咲いていたんですかね!?)
天北原野の時代はどうやら木道整備等もされておらず自然のままの湿原を体験できてたんでしょうね。一面のエゾカンゾウって今多分無いでしょうし…と思うと、本当に自然のままの湿原を体験できたんでしょうね。それだけでも荘厳すぎます。
危険もあるでしょうけれど、現代の我々には絶対に経験のできないことで最後のシーンには本当に特別なものを感じます。
湿原、夕日、利尻富士…という雄大な本物の自然に抱かれ何かを悟り何かから解放されたような貴乃の心情は想像でしかないですが、そうなってしまう理由が分かる気がします。
続・氷点でもラストもやはり思い浮かべてしまいますね。両方ともとても好きなシーンです。
お貴乃はあの後、なんというか少し変われたというか楽になれたんじゃないかな~と私は想像しています。孝介にはもはやそんな貴乃の心を理解し並ぶことはもうできなかっただろうな~と思いますが(悲)、貴乃の最後が人間としての雑念の無い安寧に包まれたのならそれで良かったな…と思ってます。それまでがあまりに苦しすぎて…
サロベツでのエゾカンゾウ、利尻富士、生きてる間に一度は見てみたいですね。
ヨブ記を交えての解説もとても面白かったです。
訪問記シリーズは一区切りということで大変お疲れ様でした。
天北原野からこんなに色々なことを知ることが出来るなんて思ってもみなかったので
ゑむゑむさんに感謝です。
また何かあればぜひご紹介下さい。それでは失礼します。
すいさん、コメントありがとうございます*
すいさんも流氷の会として声つむぎコンテストに取り組まれたようで、おつかれさまでした( ・`ω・´)b
すいさんは湿原ファンなのですね(・ω・)!
ああ〜鹿…稚内市内にはうようよいますが、サロベツ原野では見なかった気がします(ふつう逆なんですが( ° ω ° )笑)
>孝介にはもはやそんな貴乃の心を理解し並ぶことはもうできなかっただろうな~
作中で言うと完治や孝介のように、力(権力、財力、能力etc)を持っている人間って、「自分の力でなんとかできる!」と思って行動しがちなんですよね(´ω`) 作中でもそんなムーブをかまして、ことごとく裏目に出てましたよね?
これは、聖書を読んでるとよく出てくる「おごり高ぶっている状態」と表現されて、神様の裁きの対象となるのです( ° ω ° )
本来は、人間はみな神様より弱い存在であって、上述した「力」も含めてすべて神様から与えられたものなのに、なまじ力があるからそれに気づきにくいのではと思います。
三浦綾子もインタビューで自身の闘病経験について「もし自分が健康だったら『自分の力で生きてやっている』とおごっていただろう」ということを話していました。
そして、まるで自分が神であるかのようにおごり高ぶる者を制裁する一方で「神様は栄光をあらわすために弱い者を用いる」とされています。
お貴乃のように力のない人、自分ではどうにもできない苦しみを経験してきた人は「(わたし独自の表現で恐縮ですが)与えられたものに敏感」で、力のある人なら当たり前と思いがちなことも当たり前と思わず、そこに「与えてくださった方(=神様)の素晴らしさに気づく」ことができやすいのではと思います。
自然の雄大さ、悠久さを感じるのも、こうした気づきの1つだと思います。(こう考えると、ラストでサロベツ原野を眺めたときに、どこかちょっと能天気な孝介と、悠久さに感じ入っていたお貴乃の対比が見えてくる気がします)
そして力のない人が「信仰を通して神様から力をいただき、力強く生きる」のを見た人が「どうして希望を持って生きられるの? えっ神様のおかげ!? すごいじゃん!!!」と気づく…というのが、上述した「弱い者を用いる」ということです。(わたしが三浦綾子を通してキリスト教に興味を持った理由そのまんまです)
すっごく長くなりましたが(´ω`)、すいさんがおっしゃったことはわたしも感じていて、そしてそれは(少なくとも物語のその時点では)間違いではないと確信しています。
こうして『天北原野』について語り合える場を与えてくださって本当に感謝です〜!!